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2015年05月29日13:00

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5月29日の日記

今日の出来事:1293年−平禅門の乱、1453年−コンスタンティノープルが陥落、東ローマ帝国滅亡、1943年−第二次世界大戦:アッツ島玉砕、1945年−第二次世界大戦:横浜大空襲

今日は、平禅門の乱です。平禅門の乱は、鎌倉時代後期に鎌倉で起こった政変です。得宗家の執事である平頼綱(禅門)は、8代執権・北条時宗が死去し、その子・貞時が9代執権となった翌年、政治路線で対立していた有力御家人・安達泰盛や泰盛派の御家人を討伐しました(霜月騒動)。1287年に、7代将軍・源惟康が立親王して惟康親王となると政治姿勢を一変させ、恐怖政治へと邁進しました。北条貞時は、自身の乳母父でもある平頼綱に支えられて自らを頂点とする得宗専制体制を敷きましたが、平頼綱の権勢に不安を抱くようになりました。そして、1293年の「鎌倉大地震」の混乱に乗じて、鎌倉・経師ヶ谷の平頼綱邸への襲撃を命じました。平頼綱は自害し、その子・飯沼助宗も討たれ、炎の中で一族93名が死亡しました。混乱の中で北条貞時の娘2人も死亡しました。この政変とその前に起こった「鎌倉大地震」を機に、「正応」の年号は「永仁」に改元されました。以後、平頼綱の一族ら御内人の勢力は後退して、北条貞時の専制政治が始まります。金沢顕時や安達氏など「霜月騒動」で没落を余儀なくされた勢力が、幕府中枢に復帰しました。平頼綱の滅亡後、一族である長崎光綱が惣領となり、得宗家執事となりました。鎌倉幕府末期に権勢を誇り、滅亡へと導いた事で知られる長崎円喜はこの長崎光綱の子です。

次に、コンスタンティノープルが陥落し、東ローマ帝国が滅亡しました。東ローマ帝国の首都・コンスタンティノープル(現・イスタンブール)は、オスマン帝国のメフメト2世により、包囲されました。コンスタンティノス11世は西ヨーロッパ諸国に救援を求めました。ローマ教皇・ニコラウス5世はこれに応じる姿勢を見せましたが、進展がありませんでした。コンスタンティノープルを重要な商業拠点とするヴェネツィアとジェノヴァは援軍を送り、東ローマ軍は2000人の外国人傭兵を含めて7000人になりました。都市を囲む城壁の総延長は約26kmで、当時最も堅固な城壁でした。一方、オスマン帝国側は、スルタン直属の最精鋭部隊であったイェニチェリ軍団2万人を中心とした10万人の大軍勢に加え、海からも包囲するために艦船を建造させました。またハンガリー人のウルバンという技術者を雇い、新兵器であった大砲を作らせました。2ヵ月に及ぶ包囲戦の末、コンスタンティノス11世は宮殿で大臣や将兵を前に、最後の演説を行いました。将兵達は涙ながらに「キリストのために死ぬのだ!」と叫び、皆お互いに別れを告げあいました。その後、ハギア・ソフィア大聖堂で聖体礼儀が行なわれ、皇帝・コンスタンティノス11世以下将官、市民など多くの人々が神に最後の祈りを捧げました。聖体礼儀が終わると、コンスタンティノス11世は臣下の一人一人に自らの不徳を詫び、許しを乞いました。翌日、オスマン帝国側の総攻撃が開始されました。コンスタンティノス11世は、最後まで前線で指揮を執り続けました。城壁にオスマンの旗が翻ったのをみたコンスタンティノス11世は身につけていた帝国の国章(双頭の鷲の紋章)をちぎり捨て、皇帝のきらびやかな衣装を脱ぎ捨てると「誰か余の首を刎ねるキリスト教徒はいないのか!」と叫び、親衛軍とともにオスマン軍の渦の中へ斬り込んでいきました。 こうして、「西ローマ帝国」に遅れること1000年あまり、古代から存続してきた「ローマ帝国」は完全に滅亡しました。メフメト2世はこの都市1つの征服によって「征服王」と呼ばれるようになりました。コンスタンティノープルは「コスタンティニエ」の名で、オスマン帝国の新しい首都となりました。この事件は単に一帝国の滅亡に留まらず、世界史が中世から近世へと代わった重要な転換点となりました。

その次に、第二次世界大戦:アッツ島の戦いです。日本軍は海軍の「ミッドウェー作戦」の陽動作戦としてアリューシャン列島のアッツ島をキスカ島と共に攻略、占領して「熱田島」と改称しました。米川部隊2650名がアッツ島守備隊となり、飛行場と陣地の建設を開始し、守備隊司令官として山崎保代大佐が着任しました。そして、アメリカ軍の作戦名「ランドクラブ作戦」が発動され、上陸作戦がはじまりました。アメリカ軍の砲爆撃は正確で威力が高く、各地の日本軍は次第に追い詰められ、戦線を突破されました。日本軍は大半の砲を失い、食料は尽きかけていました。兵力は1000名前後まで減り、各地の日本軍はアメリカ軍の攻撃に対して激しい抵抗を続けて白兵戦となりましたが、28日までにほとんどの兵力が失われて陣地は壊滅しました。翌29日、戦闘に耐えられない重傷者が自決し、山崎保代司令官は生存者に本部前に集まるように命令しました。各将兵の労を労った後に「機密書類全部焼却、これにて無線機破壊処分す」を最後に打電しました。生き残った傷だらけの最後の日本兵300名は、山崎保代司令官を陣頭に最後の突撃を行ないました。この意表を突いた突撃によってアメリカ軍は混乱に陥り、日本軍は次々とアメリカ軍陣地を突破しました。日本軍の進撃は止まらず、遂には第7師団本部付近にまで肉薄しましたが、雀ヶ丘で猛反撃を受けて全滅しました。最後までアメリカ軍の降伏勧告を拒否し、玉砕しました。日本軍の損害は戦死2638名、捕虜は27名で生存率は1パーセントでした。アメリカ軍損害は戦死約600名、負傷約1200名でした。アッツ島の喪失によってアメリカ本土側に近いキスカ島守備隊は取り残された形となり、日本軍は「キスカ島撤退作戦」を実施し木村昌福少将が率いる救援艦隊によって脱出・撤退に成功しました。

最後に、第二次世界大戦:横浜大空襲です。横浜大空襲は、米軍によって横浜市中心地域に対して行われた空襲です。工業地、商業地、住宅地及びこれらの混在地が、焼夷弾攻撃でどのように燃えていくか、というデータを当時の米空軍は得ておらず、当空襲はそのデータ収集のための実験的攻撃でした。米軍は攻撃目標を東神奈川駅、平沼橋、横浜市役所、日枝神社、大鳥国民学校の5ヶ所と定めて襲撃しました。特に被害が甚大だったのは、現在の神奈川区反町、保土ケ谷区星川町、南区真金町地区一帯です。B−29爆撃機517機・P−51戦闘機101機による焼夷弾攻撃で、約8千〜1万名の死者を出しました。

今日の誕生日:野口雨情、ジョン・F・ケネディ(第35代アメリカ合衆国大統領)、芦屋雁之助、堤義明、美空ひばり、大鵬幸喜、北野大、田中裕二(安全地帯)、片山右京、大桃美代子、正木慎也(元忍者)、伊勢谷友介、神田愛花、エハラマサヒロ

今日の記念日:国連平和維持要員の国際デー、エベレスト登頂記念日、こんにゃくの日、呉服の日、白櫻忌/晶子忌、幸福の日、キン肉マンの日

今日の「今日訓」:本日は、「国連平和維持活動(PKO)」に関わった全ての人の献身と勇気を称え、「PKO」で命を失った人々を追悼する日「国連平和維持要員の国際デー」、1953年5月29日、ニュージーランドのエドモンド・ヒラリーとシェルパ族のテンジン・ノルゲイが、世界で初めて世界最高峰のエベレストの登頂に成功した事から「エベレスト登頂記念日」、「こ(5)んに(2)ゃく(9)」の語呂合わせで「こんにゃくの日」、「ご(5)ふ(2)く(9)」の語呂合わせで「呉服の日」、「こう(5)ふ(2)く(9)」の語呂合わせで「幸福の日」、歌人・与謝野晶子の忌日で「白櫻忌/晶子忌」、「キン(金曜日)と肉(29日)」の語呂合わせで「キン肉マンの日」となりました。
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