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2015年05月29日03:39

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外部有識者の不見識。

検証報告がお手盛りで、肝心要の部分の多くには触れられず、
特定秘密の名のもとに巧くぼかすことに成功した、
極めて狡猾で不健全なものであることは今更なのだが・・。

そのことについて、外部有識者として選抜された、
数多のアラビストの中で唯一と言ってよい、
極めて稀な政府側弁護の立ち位置にある池内恵氏。

彼は元々学識の高いイスラム研究者として名が通っているが、
他のアラビストとは違い、元々難解なイスラムの世界を、
極めて高度な論理形式を取ることで、先進国民の立ち位置として上から目線的に、
かつ複雑怪奇な思考で崇高に形作り、何度もカッコ書きによって右に左に振れ惑わせつつ、
無宗教の世俗的世界にいる一般庶民に対し崇拝させるかの如き、
非常に巧妙な論理形式を取っている。

それゆえ、一般的な学問としての見識指標においては、
相当な研究者としての資質を全面に出すことに成功しているが、
反面宗教学の根本にある『心』の部分、素朴な心理的“触覚”部分においては、
とりわけイスラムを純粋に知る上での、共鳴する部分というのが殆ど感じられない。

そんな彼ゆえに、事件当時「安倍による中東支援策がISを刺激したか否か」について、
巧妙な論理でもって「世間が示した批判は的はずれである」という論壇をたった一人で張った。
そのことが山本一太の感銘を誘い、唯一の助け舟とし、そのルートで有識者入りしたのである。

しかしその批判論理は、基本的に日本人側の、それも高度な論理思考であり、
その日本人が解釈する所の文言解釈を物差しにしながら、そこにIS(アラブ人)の
思考論理を巧みに当て嵌めるもので、日本人の、しかも政府側の主張に合うような、
巧妙な論理を組み立てた。他に類を見ない卓越された解釈手法がゆえに、
政府側に立ち批判と対峙しようとする思考の持ち主にとっては、
実に有り難く感銘すら覚える論理であり、彼の出版したIS絡みの著書の売り上げにも
寄与した所は記憶に新しい。

そんな孤高の「御用学者」に成り下がった彼が、
この度の今の世論やメディアに観られる「批判に対する批判」を論じている。

http://chutoislam.blog.fc2.com/blog-entry-340.html

この中で、群馬大学病院医師による「リスクマネジメント」に関する見解を抜粋しながら、
メディアなどに観られる「誰に責任があるのか」に加担しすぎるゆえ、
本質を見誤る危険性について論じている。

このことは論理的にも正しいし、事故検証などにおけるメカニズム解明の進め方としても、
責任所在はあくまでパーツの一つであり、主目的ではないというセオリーに基づくものだ。

この代表的なものの一つは、航空機事故調査に観られる解明の手法にある。
「何故事故は起こったか」についての事象の経緯とメカニズム検証、
「その事故はどこかの段階で防げなかったかどうか」についての、個別的事象毎の検証・・

この中で出て来るのが、いわゆる「フェールセーフ論理」だ。
事故自体は不幸にして発生しても、初期〜どこかの段階でクラッシュそのものを回避、
または最小限で抑えることが出来るかどうか、出来たかどうかを考える論理である。
その中で出て来る人為的ミスや構造的欠陥(ハード・ソフト両面)らについては、
最後の最後、必要に応じて処理されるべきであり、それを優先させることは
事故本来のメカニズム解明の視点や作業を阻んでしまう恐れがある・・というものだ。

この基本原則は、何の分野にも当て嵌まる重要な思考である。
だが、運輸系事故や上記医師によるところの医療ミス(事故)らについては
この原則がすっぽり当て嵌まるが、これが犯罪やこの度の事件のような性質のものとなると、
異なる要素が幾つも出て来る。運輸事故や医療事故は、その要素の中に
ハード(機械やシステム)が絡んで来ることが圧倒的に多いが、
事件系についてはその要素の大半は『人間』と、その人間による『判断・対応』の要素が
多分に秘めるのである。

とりわけ今回の事件について言えば、発生(渡航から拘束に至るまでの経緯含む)から
ISによる犯行声明、その後の対応まで全てにおいてハードの要素は皆無に等しく、
事象毎の判断と対応について、全てが『人間』主体にある。

その段階毎で、各々の人による判断によって食い止めることも、
拡大することにも成り得る。とどのつまり、「ヒューマンエラー」の要素が
全てにおいて検証されねばならなくなるわけだ。

各々に関与する当該人物による、その判断の背景には、法律や憲法等の要素も
部分的に存在するということにおいて、そこをハードと仮定する事は出来ようが、
あくまでもバックグラウンドでの「概念」として象徴化されてしまう、
ある種脆弱な要素でもある。それを脆弱にしないためには、
どう用いるかという人間次第、判断力に掛かって来る。

フェールセーフの論理に基づけば、この度の事件を系列的に整理するに、

1) 湯川氏の渡航とその背景
2) 湯川氏拘束事実における掌握後の対応
3) 後藤氏の渡航
4) ISによる身代金要求における対応
5) ISによる犯行声明以後の対応

と要約することが出来る。
クラッシュ(アクシデント)の終盤は、4ないしは5の段階である。
後半に行けば行くほど、解決(最悪の事態を防ぐ)することは難しくなる。

だからこそ初期段階、ここでいう1〜3の段階、もしくは4までの段階でどう対応するかに
殆どがかかっているといってよい。
今回の事案は海外の、しかも中東という条件の厳しい環境であり、
しかもISという実態の掴み難い、コンタクトも対応も取りづらい相手であるからして、
如何に事が大きくなる前に勝負出来るかが大きな鍵になるはずである。

一方でこの事案が一般的事故と異なるのは、発生から終末までの時間が
極めて多いことにある。言わば「時間的猶予」がある。
その間に対策を練る、講じる努力自体は、事故よりもある意味「有利」でもあるといえる。
だからこそ、その猶予の中でどう対応したか、尚更人間的要素について
着目と検証されることは避けて通れない。

結果的にその全てにおいて、人間の行動と判断、手段、手腕如何が問われる、
それが主体となるのが「事件」という性質であり、ここにハードが絡む余地など殆ど無い。
であるから、項目事にかかわる人物の査定、その内容について審議を要し、
その是非について一つ一つ検証する必要がある。

そしてそれを束ね、指示・指揮する立場にある大元の政府もまた人間集団であり、
そのハード的機能がどうであったかについて、検証と責任が付き纏うのである。
とどのつまり、人間に始まり人間に終わる事案なのだ。

ここが、上記医師にも池内氏にも決定的に欠落している。
その彼らが世論にある「責任問題」に付き合う形で反論したはいいが、
重要な「回避」作業としてどこに着目することが健全であるかについて、
正しい指摘・誘導が出来ておらず、しないまま今の論調を不健全と断じて終わっているのだ。

この事件は、二人共犠牲となる最も最悪の形で終わったわけで、
そこがどこか横に置かれた論調となっており、だからゆえ論理としての構築や
今後の対応策、システム作りの方に拙速な形で移っているのだ。

そのことからも、今回はその1〜3の段階で食い止めることが可能だった事案ことは
既に明らかになっているわけで、池内氏が固執する5以降の人道支援声明にある
論理思考など、あまり意味はないとさえ言える。

寧ろ、1〜3、ないしは4の段階での、その対応者の判断や
支持した政府なりの能力、判断について問われねばならないのだ。

「犯人探し」に固執し過ぎても、またその犯人を批判・断罪して終えることで
済む問題でないことは言うまでもない。
だが、池内氏の主張にあるような、責任を問うことが不健全であるかの如き論調は、
逆に当該担当者の判断・対応内容を蔑ろにさせ、そのことで次の事案における
判断基準をも再びなぞらせてしまう、形骸化や固着をも生む要因を
作ってしまうこととなるのである。


■「イスラム国」事件の政府報告 後藤さん母怒りさめやらず
(dot. - 05月28日 11:41)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=173&from=diary&id=3438442
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