mixiユーザー(id:601945)

2015年05月28日16:57

345 view

秒速280mの爆風の威力

身近な所から太平洋戦争を知る・体験する仔グマ流「大東亜戦争ダークツーリズム長崎原爆編」

今年は戦後70年。
長崎原爆投下から70年です。

GWに長崎原爆爆心地を巡りましたので、ご紹介致します。


●長崎医科大学(長崎醫科大学・現在長崎大学医学部)爆心地から東南東へ約500m

長崎医科大学(長崎醫科大学)正門門柱
現在の長崎大学医学部の裏門(図書館の裏)に、1.2m四方、高さ2.1m(土台部分を含む)の旧長崎醫科大学時代の正門門柱が、被爆当時のまま保存されています。
原爆の爆風(秒速約280m)の影響で、前方に約12cmずれ、後方は台座と約15cm浮き上がり、正面に約10度傾いたままになっています。
門柱の側面にある石板には「1945年、昭和20年8月9日、よく晴れし日の午前11時2分、世界第2発目の原子爆弾により、一瞬にして、わが師、わが友850有余名が死に果てし長崎医科大学の正門門柱にして、被爆当時の儘の状態を生々しく此処に見る」と書かれてある。又、門柱の側に建てられた石柱には、「原爆の爆風のもの凄さをここに今尚ここに見る」と刻まれてあり、原爆の脅威が生々しく伝わってきます。

ちなみに当時の長崎醫科大学は、木造の本館校舎・各基礎学教室と医学専門部、及び薬学専門部からなり、隣接して(南東約700m)付属医院(地上3階、地下1階)が建っていました。
被爆当時、本来なら8月は夏季休暇期間中であるが、当時は非常短期速成で休暇を返上して講義が行なわれていました。
原爆の炸裂と同時に本館と校舎等の76棟のうち65棟は倒壊、そして火災が発生し全焼、付属医院の外壁は残りましたが、内部は焼失しました。
講義中の五つの講堂の焼け跡からは教授は教壇に、学生は机に着席したままの姿の遺骨が発見されたという。瞬間的な校舎倒壊であったことがまさに示しています。
長崎医科大学における死亡者数は、付属医院の関係者を含め、大学関係者と学生を合わせて898名(原爆復興50周年記念長崎医科大学原爆記録集第1巻・平成8年調査後1名追加)が犠牲となりました。

長崎医科大学慰霊碑「グビロが丘」
ポンペ会館裏手の雑木林の小高い丘で、虞美人草(ひなげし)の咲く道があったのでこの名が付けられた。
原爆投下後は、丘全体が熱い熱線で木々は燃えてしまい、枯れ木山のような姿になった。
かろうじて即死を免れた多くの重傷者がここに逃げてきたが、やがてその多くは水を求めながら次々と亡くなっていった。
命を落とした構内「グビロが丘」では、敗戦後の10月から11月にかけて数多くの学生たちの遺体が収集・埋葬された。
これによりグビロが丘は原爆の惨劇を象徴する聖地として位置づけられるようになる。
ポンペが講義を開講した日付である11月12日の開学記念日に、この丘に大講堂の玄関に用いられていた花崗岩を用いて慰霊碑が建立(1947年11月12日)された。
(現在の碑は1957年に建てられたもの・長崎医科大学原爆犠牲者遺族会が13回忌に再建)


碑の正面には古屋野元学長の筆による「慰霊碑」の大文字が雄渾に刻まれている。
また、この台座の裏面には、救護活動にあたった永井隆博士の「傷つける 友をさがして火の中へとび入りしまま 帰らざりけり」という句が刻まれてある。

※ 2007年11月は医学部創立150周年の年。
企画のひとつとして、「もう一度虞美人草が咲き誇るグビロが丘」にと医学生の企画で、荒れた土地を耕し花壇ができた。


0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する