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2015年05月28日12:43

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日本海海戦記念【日進号】

日本海海戦記念【日進号】

明治38年5月27日
午前4時50分
五島列島北東沖でバルチック艦隊を発見!

午後1時50分
『三笠』にZ旗が掲揚!

【皇国ノ興廃、コノ一戦ニ在リ。各員一層奮励努力セヨ】

『マヌエル・ドメック・ガルシア』の記述
その命令は歓喜と熱狂を持って受け入れられた。
水兵から仕官に至るまで
旺盛な活力と歓喜の感情がみなぎっていた。
運命を決する戦闘の準備を間近に見ると遠い祖国アルゼンチン海軍の水兵たちの記憶が蘇ってくる。

ドメックガルシアは、アルゼンチンから日本が購入した装甲巡洋艦『日進』に搭乗し、観戦武官として日本海海戦を目撃したアルゼンチンの軍人です。

そしてバルチック艦隊の
憎き『オスラービヤ』にとどめを刺したのもアルゼンチンからやってきた『日進』『春日』でした。
日進は三笠につぐ戦死者をだしております。
アルゼンチンがこの二隻を譲ってくれたのも、日本の外交の努力の賜物でした。

詳しくはこちらの動画で。
日本海海戦とドメックガルシア
http://youtu.be/_teKul_XKaA

長い友好の歴史
(アルゼンチン日本国大使館より)

日本海海戦と巡洋艦「日進」、「春日」
帝政ロシアとの関係が風雲急を告げつつあった20世紀初頭、予想されるバルティック艦隊との海戦に備え、日本海軍にとり海軍力の増強は焦眉の急であった。
日露開戦の前年、アルゼンチンは当時イタリアに建造発注しほとんど完成していた最新鋭装甲巡洋艦「リバダビア」と「モレノ」を売却しても良いとオファーし、日本は直ぐさま交渉しこれに妥結した。
最初に交渉を行ったのは、当時アルゼンチンを兼轄していた駐ブラジル代理公使堀口九万一(詩人堀口大学の尊父)である。イタリアからこの二艦を横須賀に無事に回航する大役を果たしたのは鈴木貫太郎海軍中佐(太平洋戦争終戦時の総理大臣)で、二艦は日露開戦の6日後の1904(明治37)年2月16日、国民歓喜の中横須賀に到着した。それぞれ「日進」、「春日」と命名されて、旗艦「三笠」の隷下に入り、日本海海戦で戦功を挙げた。アルゼンチンが日本に示した好意の背景には、1898年に結ばれていた日亜友好通商航海条約や、その翌年に訪日して大歓迎を受けた海軍練習艦「サルミエント」のベトペデル艦長が海軍大臣になっていたことなどがある。
因みに、その後、「日進」は1935年(昭和10)年に廃艦となり、「春日」は1945年に米軍機の爆撃で沈没している。

観戦武官ドメック・ガルシア
前記の装甲巡洋艦「リバダビア」と「モレノ」をイタリアにおいて日本側に引き渡す際のアルゼンチン側代表であったドメック・ガルシア海軍大佐は、その後、命を受け日本に行き、日本海海戦において観戦武官として「日進」に陪乗した。その後もドメック・ガルシア大佐は日本に残り、膨大な報告書を本国に提出した。この報告書は単なる海戦の記録に留まらず新興国日本の海軍事情を具に調査・分析したものであった。更に、この報告書は80年の歳月を経て海上自衛隊の教育用資料として邦訳され、更に、日亜修好100周年を記念して1998年に日本アルゼンチン協会から「アルゼンティン海戦武官の記録」として公刊された。ドメック・ガルシア大佐は1932−38年には海軍大臣となり、退役後はアルゼンチン日本文化協会の会長として両国友好に余生を尽くした。御子孫の家には、ドメック・ガルシア大佐が明治天皇から送られた銀花瓶と金蒔絵の重箱が家宝として保存されている。
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