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2015年05月27日17:05

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奇跡の一本鳥居

身近な所から太平洋戦争を知る・体験する仔グマ流「大東亜戦争ダークツーリズム長崎原爆編」

今年は戦後70年。
長崎原爆投下から70年です。

GWに長崎原爆爆心地を巡りましたので、ご紹介致します。


●山王神社と一本柱鳥居(二の鳥居)爆心地から南南東約800メートル

山王神社

由緒・歴史
山王神社は、1648年(慶安元)に創建された延命寺の末寺「円福寺」が前身である。
1638年(寛永15)の島原の乱鎮圧の後、長崎を訪れた老中松平伊豆守信綱が、浦上街道沿いのこの地を通りかかった際「景色が近江の比叡山のふもとに似ており、また地名も坂本と同じことから、ここに比叡山坂本に置かれている山王権現を観請してはどうか」と、時の長崎代官・末次平蔵茂房に語ったことから、長崎奉行と計り、山王日枝の「山王権現」が此の地に祀られた。
(初め、「白山の岡(現・平和公園)」にあって、そこから現在の坂本に移転したという説がある)
 
1652年(承應元) 現在地に移転。1837年(天保8)門前に鳥居奉納。1845年(弘化2)拜殿。 
1849年(嘉永2)社殿再建。 
1868年(明治元)、「山王日吉(ひえ)神社」と改称。 
1874年(明治7)縣社。 
1869年(明治2)、当時の長崎裁判所の総督、澤宜嘉により設立された浦上皇太神宮が、1883年(明治16)に合祀され、1884年(明治17年正月8日)遷御式を行ない「縣社浦上皇太神宮」と改称。
地域の人々からは「山王さん」と呼ばれ、親しまれてきた。
1945年(昭和20)、原爆により社殿は倒壊し、社務所、由来書、宝物等が全焼した。
昭和25年正殿再建。

山王神社 一本柱鳥居(二の鳥居)
一本柱鳥居(二の鳥居)は爆心地から南南東約800メートルの高台にあり、この鳥居は貴重な原爆遺跡として評価も高く、原爆資料の一つとなっている。
1924年(大正13)、山王日吉神社の二の鳥居が建立され、のち参道に一の鳥居から四の鳥居までが建てられていた。
1945年8月9日の原子爆弾で鳥居も破壊されたが、そのなかで二の鳥居は強烈な爆風(秒速約200m)によって爆心地側の半分が吹き飛ばされ、その折に上部に残っていた「カサ石」が風圧でねじれ曲り角度(約13度)がわずかに変わっている。
また、原子爆弾の爆風とともに発せられた熱線により、石に含まれている雲母などが膨張し、表面が剥離した。
このため、爆心地側の面に刻まれていた奉納者の氏名の一部が剥がれて文字が読めなくなっている。
二の鳥居は今なお奇跡的にも一本柱の状態で建ち続けています。
なお、高さ、幅回りが一番大きかった一の鳥居は、爆心地と結ぶ平行線上に位置し建っていたので、爆風を避けることができ倒れずに残っていたが、1962年(昭和37)トラックの衝突事故で倒壊し撤去された。
当時は被爆遺構に対する関心が低かったため撤去されたといわれる。
その後この鳥居がどこにいったのか分からなくなっている。
三の鳥居と四の鳥居は原爆のよって倒壊。
うち三の鳥居の柱の一つは「坂本町民原子爆弾殉難之碑」となっている。

山王神社 被爆クスノキ
1969年(昭和44)長崎市指定天然記念物となる。
1996年(平成8)環境省(残したい日本の音風景100選)認定

 地域の人々と共に生きる木と風のささやき、境内を通る風で起こる葉音は、1996年7月に環境省の“残したい「日本の音風景百選」”に選ばれた。
山王神社の境内入口にそびえるこの二本の楠木は、樹齢約500年、胸高幹囲がそれぞれ8.63メートルと6.58メートルで、市内にある楠木では巨樹の一つです。
ともに昭和20年の原爆で主幹の上部が折れたため、樹高は21メートルと17.6メートルであるが、四方に張った枝は交錯して一体となり、大樹冠を形成している。
原爆の熱線で爆心地側の幹は焼け、爆風では枝葉も落ち、枯れ木同然となり、蘇生を危ぶられていたが、1945年(昭和20)10月初め頃、爆心地と反対側にあたる樹木の裏側から新芽が吹きだし、次第に樹勢を盛りかえし枝葉を茂らしてきた。
このことは戦後の復興に希望を与え地域の人々に励ましとなった。
今は緑の木の葉のざわめきの中に、この山王地区を何百年もの間見守ってくれた大楠のやさしさと平和の音が聞こえてくる。


画像1
一本鳥居

画像2
片割れの倒れた鳥居

画像3
被爆クスノキ


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