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2015年05月23日01:15

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5月23日の日記

今日の出来事:1213年−和田合戦、1689年−奥の細道:松尾芭蕉が雲巌寺に到着、1869年−箱館戊辰戦争:第一次木古内の戦い、1915年−第一次世界大戦:イタリアがオーストリア・ハンガリーに宣戦布告(三国同盟を破棄して連合国側で参戦)、1925年−北但馬地震、1945年−イギリス軍に拘束中の元ナチス親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーが自殺

今日は、和田合戦です。鎌倉幕府初代将軍・源頼朝の死去後、幕府では御家人間の争いが続き、有力御家人の梶原景時、比企能員、畠山重忠らが滅ぼされました。2代将軍・源頼家が幽閉された後に暗殺され、北条時政・義時父子によって源実朝が3代将軍に擁立され、執権の北条氏が幕府の実権を握りつつありました。和田義盛は武勇の士として知られ、源頼朝の挙兵より「源平合戦」、「奥州合戦」でも武功をあげ、幕府創業の功臣の一人として重んじられていました。信濃源氏・泉親衡が源頼家の遺児・千寿を将軍に擁立して北条氏を打倒する陰謀が発覚(泉親衡の乱)しました。事件に関係したとして和田義盛の子の義直・義重、甥の胤長が逮捕されました。和田義盛は将軍に一族の赦免を嘆願し、義盛の多年の勲功に免じて子息の義直・義重は赦免されました。次に、和田義盛は和田一族98人を引き連れて、甥・胤長の赦免を嘆願しました。大江広元が現れ、和田胤長は事件の張本人であるので許すことはできないとして和田一族の面前で、縄で縛りあげました。和田胤長は陸奥国岩瀬郡への流罪となりました。6歳になる胤長の娘が悲しみのあまり病になって、息を引き取りました。和田一族は胤長の処分を決めた執権・北条義時を深く恨みました。罪人となった和田胤長の鎌倉の屋敷は没収される事となり、和田義盛は挙兵を決断しました。和田義盛は和田一族の他に、縁戚の横山党、波多野氏、そして本家筋にあたる有力御家人の三浦義村と同心し、三浦義村が起請文を書きました。まず、和田義盛の隣家の筑後朝重から、義盛の館に軍兵が集まっていると大江広元に通報がありました。次いで、三浦義村から北条義時へ和田義盛挙兵の報告が入りました。三浦義村は弟の胤義と相談の上で土壇場で寝返ったのでした。和田義盛ら和田一族は決起し、150騎を三手に別けて大倉御所の南門、北条義時邸、大江広元邸を襲撃しました。この時、北条義時邸、大江広元邸には留守の人数しかいなかったため、これを蹂躙しました。和田勢は大倉御所を囲んで一斉に攻め寄せました。御所に火が放たれ、警護の武士と攻防になりました。ここへ幕府側へ寝返った三浦義村が来援し、北条朝時らとともに御所を守りました。和田勢で最も奮戦したのが和田義盛の三男・朝比奈義秀でした。朝比奈義秀は、惣門を打ち破って南庭に乱入し、幕府方の武士を次々に斬り倒しました。御所が炎上する中で、源実朝は辛うじて法華堂へ脱出しました。和田勢は日が暮れるまで戦いましたが、幕府方には新手が次々に加わったため、矢種が尽き人馬も疲労して退き始めました。足利義氏ら幕府軍は勝ちに乗じて攻めかかり、朝比奈義秀をはじめとする和田勢がこれを必死に防ぐと、由比ヶ浜へ退却しました。夜が明け始めた時、由比ヶ浜に集結していた和田勢の元に横山時兼らが率いる横山党の3000騎が到着し、和田勢は勢いを盛り返しました。和田・横山勢は再び鎌倉に突入し、北条泰時、時房らが守る若宮大路を中心に市街各所で激戦となりました。ここでも朝比奈義秀が奮戦し、先頭に立って突撃して敵を追い散らしましたが、新手を繰り出してくる幕府軍に対して、和田・横山勢は次第に疲弊して数を減らしていきました。そして、和田義盛の愛息・義直が討ち取られて悲嘆している所に、江戸義範の郎党が襲い掛かり、和田義盛は討ち取られました。子息の義重、義信、秀盛も討ち死にしました。朝比奈義秀はこの場を脱し、船6艘、兵500騎とともに安房国へ逃れました。朝盛も生き延びて京に逃れました。横山党も潰走して勝敗は決しました。合戦後、境川に梟された和田一族の首級は234にのぼりました。和田氏の一族は追及処罰されて、ほぼ滅亡しました。和田義盛の孫の朝盛は生き残り、後の「承久の乱」で後鳥羽上皇方として戦います。和田義盛の弟、和田義茂は北条方に味方しました。

次に、奥の細道:松尾芭蕉が雲巌寺に到着です。松尾芭蕉は、雲巌寺に到着しました。芭蕉は太田原の黒羽を訪れ、黒羽藩城代家老の浄法寺高勝に招かれました。その後、雲巌寺に禅の師匠であった住職・仏頂和尚を訪ねました。そして、この句を詠みました。「木啄も 庵はやぶらず 夏木立」:雲巌寺

その次に、箱館戊辰戦争:第一次木古内の戦いです。乙部に上陸した新政府軍1500名は、3つのルートから箱館へ向けて進軍を開始しました。木古内方面へ進軍を開始した新政府軍は、軍監・和田慎之助が率いていました。木古内では、陸軍奉行・大鳥圭介が「伝習隊」、「額兵隊(隊長:星恂太郎)」を率いて駆けつけ、ここを守っていた「彰義隊」などと合流しました。松前から敗走してきた部隊(松岡四郎次郎の「一聯隊」 、伊庭八郎の「遊撃隊」)を取り込み、木古内周辺の要所に500名の部隊を配置しました。早朝に新政府軍の攻撃が開始されましたが、旧幕府軍の奮闘で新政府軍は弥七沢の本営に退却しました。

その次の次に、北但馬地震です。北但馬地震は、1925年5月23日午前11時11分、兵庫県但馬地方北部で発生した地震です。円山川流域、特に豊岡、城崎の町に甚大な被害をもたらしました。揺れを感じる直前に、円山川の河口付近で海側から大砲のような音が断続的に聞こえました。地震発生時には、豊岡の町で地面が16秒間に4回も強く波打ちました。当時の建築物は木造が大半であったため、地震の初動で建物の多くが一気に倒壊しました。昼時で、食事準備のために火を焚いていた民家や旅館では、家屋倒壊に伴って瞬く間に火の手が上がりました。地震後に発生した火災により、豊岡では町の半分が焼失し、城崎では272名の死者が出ました。犠牲者の大半は、食事準備中に倒壊した建物に挟まれて、火災によって焼死した女性たちでした。但馬地方北部、円山川流域のこの地域は、三方を山地に囲まれ、残る北部は海に隔てられているため、陸の孤島でした。この地震により交通網が寸断されたため、周辺の町の消防団や陸軍・海軍の救護隊が到着するまでに丸一日かかりました。そのような中で、豊岡中学校の生徒約500名が倒壊家屋からの生存者救助や消火活動に従事し、臨時の救助隊として大きな働きをしました。円山川の改修に従事していた朝鮮人労働者の多くが救援に奔走し、後に県知事の表彰を受けました。また、鳥取高等農業学校(現在の鳥取大学農学部)の生徒がいち早く城崎に駆けつけて、ボランティア活動を展開しました。この「北但馬地震」は、「関東大震災」やその後に関東地方で地震が頻発した事によって広まった「地震は関東で起きるもの」という先入観を打ち崩しました。地震後、豊岡や城崎では道路幅拡大や耐火建築の促進など、地震・火事に強い町を目指して「震災復興再開発事業」を成し遂げました。

最後に、元ナチス親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーが自殺です。ハインリヒ・ヒムラーは国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の親衛隊(SS)の第4代親衛隊全国指導者です。ナチス党の政権掌握後、全ドイツ警察長官、ヒトラー内閣・内務大臣などを歴任し、ドイツの警察権力を掌握しました。ゲシュタポや強制収容所 も彼の指揮下に置かれていました。「第二次世界大戦」中には、ドイツが占領したヨーロッパの広範な地域に彼の警察権力が及ぶ事となりました。ヨーロッパのユダヤ人やロマなど「生きるに値しない命」に対して「大量虐殺(ホロコースト)」を組織的に実行しました。ソ連人(ロシア人、ウクライナ人など)やポーランド人、チェコ人などのスラブ民族に対しても軽蔑心を隠さず、冷酷な態度で支配に臨みました。ホロコーストで殺害されたとされる600万人のユダヤ人をはじめとして、ロマ・ポーランド人・カトリック聖職者・ロシア人捕虜・エホバの証人・障害者・同性愛者等、諸々の虐殺に対し責任を負いました。ヒムラーは、大戦末期にドイツの戦況を絶望視すると、独断でアメリカ合衆国との講和交渉を試みましたが失敗しました。これを知ったアドルフ・ヒトラーの逆鱗に触れて解任されました。その後、イギリス軍の捕虜となって取り調べ中に、奥歯に隠し持っていたシアン化カリウムのカプセルを噛み砕いて自殺しました。

今日の誕生日:永倉新八、サトウハチロー、根本要(スターダスト・レビュー)、西川峰子、高橋名人、川島隆太、上野博文(T−BOLAN)、ウルフルケイスケ(ウルフルズ)、山口勝平、緑川ゆき、阿武教子、石原萌(MOE・元Folder5)、三田友梨佳、夏菜、タマモクロス

今日の記念日:世界亀の日、キスの日、恋文の日/ラブレターの日

今日の「今日訓」:本日は、1946年に日本で初めてキスシーンが登場する映画「はたちの青春」が公開された事により、「キスの日」となりました。亀について知り、亀に敬意を払い、亀の生存と繁栄のため、人間の手助けをする日で「世界亀の日」、「5(こい)2(ぶ)3(み)」の語呂合わせで「恋文の日/ラブレターの日」となりました。
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