http://9001.teacup.com/sfk/bbs/15746 (写真入り記事)
「一日一シャ」 も今日で44回目。まもなく私の誕生日も44回目です。一日一シャなら、「まだ44回」と感じますが、年齢の44は、「もう44歳」と感じます。
第16代のアメリカ合衆国大統領の「エイブラハム・リンカーン」は、「40 歳になったら人は自分の顔に責任を持たねばならない」という言葉を残しました。
確かにその通りだと思います。40代は、立派な大人であり、「まだまだ若いから・・・」という言い訳がきかない年代です。だからこそ、「44」という数字に重みを感じます。
ここまで来るのに、両親の愛と犠牲がありました。そして、多くの方々によって支えられ、励まされ、ここまで来ることができました。43年と10ヶ月を振り返って感謝したいと思います。
リンカーンの語った、「自分の顔に責任を持たねばならない」という言葉にも重みを感じています。
顔は、その人の器の大きさ、愛情深さ、生き様などが現れます。
不思議ですねぇ。40歳を超えた人の人生は、その人の顔を見たらおおよそ見当が付くものです。
時々、生き方を点検させられることがあります。
それは、物事がうまく進んでいる時ではありません。物事がうまく進んでいる時には、ほとんど何も考えていません。
物事が思い通りに進まず、挫折した時には、立ち止まって、自分の生き方を点検し、深く物事を考えるようになります。
その意味でも、試練は大きな恵みであり、祝福の時だなーと思います。
聖書は、「順境の日には楽しめ、逆境の日には考えよ。」(伝道の書7:14)と語ります。
逆境とは、前述のように、思い通りに進まない状態を指します。
クリスチャンになる以前の私は、自分の思い通りに人生を進ませていくことが人生だと思っていました。思い通りにいかないと、すぐに気持ちを切り替えて、違う方向で思い通りに人生を進めていこうとしました。
クリスチャンになってからは、思い通りに進まないと、「神様が私の味方で、よくして下さるはずだ!」という期待がある分、ショックが大きく、パッと頭を切り替えられず、そこから動けなくなることもあります。
それは、神様が、「逆境の日には考えよ。」と語って下さっているのだと思います。
私の友人で、クリスチャンになる前は、自信に満ち溢れていたのに、クリスチャンになってからは、落ち込むことが多くなった人がいます。
クリスチャンになる前は、思い通りに進まなくても、自分と向き合ったり、物事を深く考えなかったので、悩まなかったのに、クリスチャンになったことで、自分と向き合い、物事を深く考えるようになったので、問題を素通りできずに苦しんでいるのだと思います。
自分と向き合い、物事を深く考えると、行き着くのは、自分の考え方、価値観、生き方を変えるか? 変えないか? です。
人は、根本的に変わりたくない存在です。
聖書は、「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」(ヘブル書13:8)と書かれています。
イエス・キリストは、創造者であり、全知全能の神であり、愛であり、救い主、いやし主、解消者です。この方は、永遠に変わりません。変わらないお方なので、安心して付いていくことができます。
しかし、私たち人間は、常に変わり続けているし、変わり続けていかなければならない存在です。
聖書は、「栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。」(第ニコリント3:18)と語ります。
思い通りに進まない逆境の時、人は、自分と向き合い、深く考えることによって、大きく変化するチャンスが与えられます。
クリスチャンが、ここで、もがき抵抗すると、大きな痛みを感じ、苦しむことになります。
もちろん、苦しんで当然です。人は、変わりたくない存在だからです。
毎週教会にいくと、多くの人が指定席を持っているのではないでしょうか。遅刻をして、指定席に先に違う人が座っていて、別の席に座らなければならないとしたら、落ち着かないものではないでしょうか。
私は、クリスチャンになって、逆境の時に、何度も何度も、神様から変わるチャンスを頂いたのに、そのチャンスをスルーし、パスしたことがありました。しかし、スルーし、パスしても、何度もその同じ部分を変えるようにと、神様がチャレンジを与えて下さいました。
そこで、変わらない道を選ぶこともできますが、変わらないと、もっともっと苦しむことになりますが、そこで、古い自分がキリストとともに十字架につけられて死に、キリストとともに復活するならば、活路を見出すことができ、道が開かれ、大きな喜びとともに前進することができます。
クリスチャンとクリスチャンじゃないということを分ける必要はありませんが、クリスチャンは、クリスチャンであることのゆえに苦しむことがあるのです。それは、愛の神がおられるのに、なぜこのような苦しみを経験しなければならないのか? と考えるからです。
旧約聖書のヨブ記のテーマは、「義人何ゆえ苦しむのか?」です。
その結論は、ヨブの悔い改めであり、ヨブの変化です。その結果、ヨブはもともと大富豪であり、東洋一祝福された人でしたが、さらに2倍の祝福を受けることができました。
しかし、問題は途中です。神がヨブを見捨てたのではないかと思えるような試練と神の沈黙が続きました。
私たちはヨブ記を読むことができるので、結論を知っていますが、ヨブにはどういう結末が待っているのかわかりませんでした。ヨブは、信仰者として戦いながらも、自分を変えることができませんでした。最後は、神様と直接出会って、恐れおののきながら悔い改めました。
私は、ヨブと自分を比較するのはおこがましいと思いますが、私も私なりにクリスチャンのゆえにたくさんの苦しみを経験してきました。
そのようなことを話したらびっくりされるかも知れませんが、本当です。
しかし、その苦しみのただ中で、神と出会い、自分と向き合い、深く考えるチャンスが与えられ、自分が粉々に砕かれ、変えられ、生まれ変わる経験をした時に、試練に会う以前よりも、はるかに大きな喜びと祝福を体験しました。
だから、結論は最高なのですが、その途上に、たくさんの苦悶と涙を通過しているのです。
「彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします。」(詩篇84:6)
私のこのような経験が、苦しみと涙の谷の中で苦しんでいる1人の人の励ましになり、前に進むことの手助けになるとしたら幸いです。
さて今日一日のことですが、午前中は、妻と一緒に買い物に出かけました。午後は教会で仕事をし、夕方からは御茶ノ水で祈祷会がありました。
しかし、一日一シャが、一日のできごとの羅列だけだとしたら、書く意味がありません。また、自慢話や成功の体験談なら、何の価値もありません。
これは、私の試練と逆境を通しての、悔い改め、変えられた後に味わう感謝や祝福の分かち合いです。
今日も素晴らしい一日を下さった神様に感謝をします。また、一日一シャを読んで下さった方に感謝をいたします。
おやすみなさい。
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