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2015年05月21日00:28

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5月21日の日記

今日の出来事:643年−板蓋宮に遷都、905年−紀貫之らが「古今和歌集」を撰進、1497年−晴気城の戦い:少弐政資自刃、1585年−太田城水攻め、1792年−島原大変肥後迷惑、1862年−寺田屋騒動(第一次寺田屋事件)、1868年−北関東戊辰戦争:瀬川十文字の戦い、1927年−リンドバーグが大西洋単独無着陸飛行に成功、1938年−津山事件、2009年−日本で裁判員制度開始、この日以降に起きた事件が対象となる、2012年−金環日食が173年ぶりに東京で見られる

今日は、板蓋宮に遷都です。皇極天皇は夫である舒明天皇の崩御により即位し、大臣である蘇我蝦夷へ新宮殿を建設するよう命じました。これにより、奈良県明日香村に完成したのが「板蓋宮」です。遷都後、「板蓋宮」は「乙巳の変」の舞台となりました。皇極天皇の眼前で大臣の次期後継者である蘇我入鹿が刺殺されるという凶行がなされ、皇極天皇は退位し、事件の真の首謀者と目される軽皇子が即位して「孝徳天皇」となりました。孝徳天皇は、難波長柄豊碕(難波宮)に遷都します。

次に、紀貫之らが「古今和歌集」を撰進です。「古今和歌集」は、醍醐天皇の勅命により「万葉集」に選ばれなかった古い時代の歌から、撰者たちの時代までの和歌を選んで編纂されました。撰者は紀貫之、紀友則、壬生忠岑、凡河内躬恒の4人です。全二十巻で構成され、歌数は総勢1111首です。

その次に、晴気城の戦い:少弐政資自刃です。少弐政資の父・教頼は、大内氏との抗争に敗れて対馬の宗氏の下に落ち延びました。将軍・足利義教から一字を貰い受けて幕府と誼を通じていたため、筑前守護として復帰しました。「嘉吉の乱」が勃発すると、赤松満祐の弟・則繁を匿った罪で追討を受けました。大内教弘と渋川教直の攻撃により、対馬や肥前に逃げました。「応仁の乱」が勃発すると、西軍として上洛した大内政弘の留守をつくため、東軍の細川氏と接近して幕府への帰参を果たしました。そして、宗氏の援助を借りて勢力回復を図りました。しかし、再び大内軍に敗れて筑前の高祖城で自刃しました。こうして、少弐家再興は少弐政資に引き継がれました。少弐政資は、大内氏に奪われていた筑前、豊前を回復しました。そして、大陸との貿易を頻繁に行う事によって利益を上げました。また、肥前の千葉氏の内紛に付け込んで、弟を当主として送り込んで千葉胤資と名乗らせました。このようにして、少弐氏を一時的に中興しました。しかし、長年の盟友だった対馬の宗貞国に離反されてしまい、更に「応仁の乱」の終了後、大内政弘が再び北九州への侵攻を開始すると劣勢となりました。幕府より少弐政資の追討令を得た大内政弘の子・義興、九州探題・渋川尹繁の大内氏・渋川氏連合軍の全面的攻撃により、筑前を放棄して肥前の千葉胤資の居城・晴気城に退避しました。さらに、追撃を受けて傘下の国人・多久氏の居城・梶峰城に拠りましたが、多久宗時の離反によって追放され、1497年5月21日に専称寺で自刃しました。千葉胤資は、少弐政資・高経父子を落した後、晴気城から打って出て討死しました。子・高経は城から逃亡して再挙を図りましたが、大内氏の追討を受けて市の川で自刃しました。しかし、子・資元が肥前の横岳資貞を頼って落ち延びたため、少弐氏は何とか存続しました。

その次の次に、太田城水攻めです。「太田城水攻め」は、「備中高松城の水攻め」と「忍城の水攻め」と並んで「日本三大水攻め」の一つです。紀伊は根来寺を中心に「紀州惣国一揆」と呼ばれ、寺領72万石で3万の僧兵を養っていました。羽柴秀吉はこの寺領を全部納めるよう命じましたが、従わなかったため「紀州征伐」を命じました。1585年4月9日、羽柴秀吉自らが総大将に、羽柴秀長、羽柴秀次を副将とし、その下に細川忠興、蒲生賦秀、中川秀政、増田長盛、筒井定次、宇喜多秀家、長谷川秀一、蜂須賀正勝、前野長泰などの10万の兵で出陣し、4月20日に千石堀城から太田、雑賀衆、根来衆連合軍の諸城を次々に落城させました。次いで4月22日、風吹峠と桃坂の2方向から根来寺を攻め立てました。根来寺は当時、堅固な要害でしたが焼き払われました。根来寺の大塔には、この時の銃弾跡が残っています。羽柴秀吉軍の次の目標は太田城に向けられました。羽柴秀吉軍は、堀秀政が率いる先陣3000の兵と長谷川秀一が率いる第二陣3000の合計6000の斥候隊を繰り出して、太田城へ向けて攻撃を開始しました。田井ノ瀬橋付近から紀ノ川を渡河しましたが、太田城から待ち伏せの鉄砲隊と弓隊から攻撃されて53名が討ち取られました。この斥候隊の敗北により、水攻めに切り替えました。4月24日、紀の川の水をせき止め、城から300m離れた周囲に堤防を築きました。堤防の高さは3〜5m、幅30mで、6kmに及びました。工事に要した人数は46万9200人、昼夜突貫工事で6日間で仕上げました。この築堤工事の途中、甲賀衆の担当部分が崩れました。そのため、甲賀衆が改易流罪となり、山中大和守俊好は所領を没収されました。4月30日より水を入れ、5月2日より数日間大雨が降り続けました。そのため、浮城のようになりました。5月7日、横堤が切れて城内へ浸水し、城方を混乱に陥れました。しかし、横堤が切れたため水圧に変化が生じ、翌8日には逆に水攻め堤防の一部が切れて、寄手の宇喜多秀家勢に多数の溺死者が出ました。5月20日、攻城側は一気に決着をつけるため、小西行長の水軍を堤防内に導きました。安宅船や大砲も動員しての攻撃で、城の大半を占拠しました。しかし、城兵も鉄砲により防戦したため、寄手の損害も大きくなりました。1ヵ月に及ぶ籠城で衰えが見え始め、21日に蜂須賀正勝、前野長康の説得に応じて、太田左近をはじめ53名が自害しました。53人の首は、大坂天王寺の阿倍野で晒されました。また、主な者の妻23人を磔に架けました。その他の雑兵・農民らは赦免されました。紀伊平定後、羽柴秀吉は国中の百姓の刀狩を命じました。紀伊一国は、羽柴秀長領となりました。羽柴秀長は紀伊湊に吉川平介、日高入山に青木一矩、粉河に藤堂高虎、田辺に杉若無心、新宮に堀内氏善を配置しました。また、藤堂高虎を奉行として和歌山城を築城し、その城代に桑山重晴を任じました。その後、羽柴秀吉軍は3万の兵で堺から洲本に向い「四国征伐」へと続いていきます。羽柴秀吉は、「関白」に就任して「豊臣秀吉」と改名します。

そのまた次に、島原大変肥後迷惑です。島原大変肥後迷惑は、1792年5月21日に肥前国島原(長崎県)でおこった雲仙岳の火山性地震およびその後の眉山の山体崩壊「島原大変」と、それに起因して島原や対岸の肥後国(熊本県)を襲った津波「肥後迷惑」による災害です。
島原大変:肥前国島原の雲仙岳西側で有感地震が多発、普賢岳が噴火し溶岩流や火山ガスが噴出しました。そして、2度の強い地震が起こり、眉山の南側部分が大きく崩れました。3億4000万立方メートルに上る大量の土砂が島原城下を通り、有明海になだれ込みました。この時の死者は約5千人と言われています。
肥後迷惑:山体崩壊で大量の土砂が有明海になだれ込んだ衝撃で、10メートル以上の高さの津波が発生しました。津波は、島原の対岸の肥後天草に襲いかかりました。肥後の海岸で反射した返し波は、島原を再び襲いました。津波による死者は約1万人と言われています。
この「島原大変肥後迷惑」による死者・行方不明者は合計1万5千人にも及び、有史以来日本最大の火山災害となりました。島原地方には今も多くの絵図や古記録が残っており、供養塔・墓碑・記念碑が200ヶ所以上存在します。この時に有明海に流れ込んだ岩塊は、島原市街前面の浅海に岩礁群として残っており、「九十九島」と呼ばれています。

そのまた次の次に、寺田屋騒動(第一次寺田屋事件)です。薩摩藩の「誠忠組」は水戸藩と共同して大老・井伊直弼を暗殺して京都への出兵を行おうとする「突出」を計画しましたが、薩摩藩主の父で事実上の指導者・島津久光から軽挙妄動を抑制されて頓挫しました。結局、井伊直弼暗殺「桜田門外の変」には有村次左衛門のみが参加し、それを国元へ伝えた兄の有村雄助は切腹処分となりました。島津久光は藩兵1000名を率いて上洛しました。しかし、島津久光には「倒幕」の意志はなく、「公武合体」がその路線でした。この事に不満を持った薩摩藩「誠忠組」の過激派、有馬新七らは尊王派の志士・真木和泉、田中河内介らと共謀して関白・九条尚忠、京都所司代・酒井忠義邸を襲撃する事を決定し、伏見の船宿「寺田屋」に集まりました。島津久光は奈良原喜左衛門や有村俊斎、大久保利通を派遣して、この騒ぎを抑えようとしましたが失敗したため、尊王派藩士(誠忠組)を派遣して藩邸に呼び戻し、自ら説得しようとしました。この時、責任を感じた永田佐一郎は切腹しました。鎮撫使には剣術に優れた藩士が選ばれました。大山綱良、奈良原繁、道島五郎兵衛、鈴木勇右衛門、鈴木昌之助、山口金之進、江夏仲左衛門、森岡善助、さらに上床源助が志願して加わった計9名でした。大山綱良らは有馬新七に藩邸に同行するように求めましたが、これを拒否したため「誠忠組“同士討ち”」の激しい斬りあいが始まりました。この戦闘によって討手1人(道島五郎兵衛)と有馬ら6名(有馬新七、柴山愛次郎、橋口壮介、西田直五郎、弟子丸龍助、橋口伝蔵)が死亡、2名(田中謙助、森山新五左衛門)が重傷を負いました。また2階には多数の尊王派(大山巌、西郷従道、三島通庸、篠原国幹、永山弥一郎など)がいましたが、大山綱良らが刀を捨てて飛び込み必死の説得を行った結果、残りの尊王派志士たちは投降しました。負傷者2名は切腹させられ、尊王派の諸藩浪士は諸藩に引き渡されました。引き取り手のない田中河内介らは薩摩藩に引き取ると称して船に連れ込み、船内で斬殺されて海へ投げ捨てられました。以下が「寺田屋騒動」の殉難者です。有馬新七(道島五郎兵衛と斬り合いになり、相手の懐に飛び込み「おい(俺)ごと刺せ」と叫び、道島と刺し違えて死亡)、柴山愛次郎(鎮撫使が到着後、2階から降りて激論となり山口金之進に斬殺)、弟子丸竜助(鎮撫使が来て斬り合いの始まった時、騒音を聞いて階下に降り、階段の側にいた大山綱良に腰を斬られ斬殺)、西田直五郎(二階から階下をのぞいた瞬問、上床敬蔵が下から突き上げた槍にかかり転落、重傷を負い斬殺)、橋口伝蔵(奈良原繁に斬殺される)、田中謙助(鎮撫使と激論後「もう論ずることはない」と断じたため、道島五郎兵衛に「上意」と叫んで眉間を斬りつけられ気絶、翌日切腹となる)、橋口壮介(鎮撫使と斬り合い闘死)、森山新五左衛門(鎮撫使と斬り合い重傷、翌日切腹となる)、道島五郎兵衛(鎮撫使に任命され、「上意」と叫び田中謙助を斬り、有馬新七と刺し違える)、山本四郎(京都藩邸で療養中に寺田屋事件がおこり、自刃する)、森山新蔵(息子・新五左衛門が殉難したのを知り、切腹)、橋口吉之丞(有馬新七が道島五郎兵衛に組み付き押さえつけた際、「おい(俺)ごと刺せ」と有馬に言われ、有馬の背中から道島の身体へ刀を突き入れた、明治元年に切腹となる)、田中河内介(中山家家士、海路鹿児島に護送される途中、播磨灘で斬殺され海に捨てられる)、田中瑳磨介(田中河内介の子、海路鹿児島に護送される途中、播磨灘で斬殺され海に捨てられる)、海賀宮門(秋月藩士、鹿児島に護送される途中、日向細島で殺害される)、千葉郁太郎(叔父・田中河内介とともに捕らえられ、鹿児島に護送される途中、日向細島で殺害される)、中村主計(島原藩士、鹿児島に護送される途中、日向細島で殺害される)こうして薩摩藩は多数の人材をここで失いました。

さらに次に、北関東戊辰戦争:瀬川十文字の戦いです。宇都宮城を奪われた大鳥圭介は、今市へ到着しました。その後、日光へ布陣しました。一方、新政府軍は板垣退助が率いる救援軍が今市に向かいました。大鳥圭介が率いる旧幕府軍は、日光と今市の境界である瀬川十文字で向かえ撃とうとしました。こうして、新政府軍・土佐藩「迅衝隊」と旧幕府軍「伝習隊」、「草風隊」が交戦しました。しかし、数に勝る新政府軍の前に日光へと敗退する事になりました。その後、日光を戦地にしたくない日光山の僧侶達は、土佐藩先鋒隊の指揮する谷干城と面会しました。谷干城は日光山を救いたければ、大鳥圭介に日光山を降りて我ら(土佐藩兵)と決戦するか、または降伏するように伝えました。これを聞いた大鳥圭介は「日光山を降りての決戦か降伏」のどちらでもなく、日光山から会津藩領へ脱出して抗戦を続ける事を決定しました。大鳥軍は六方沢の間道を越えて会津藩領五十里を目指し、日光山を後にしました。こうして新政府軍は日光へ入りました。大鳥圭介は五十里で会津藩家老・萱野権兵衛に迎えられました。その後、会津藩の若年寄・山川大蔵と共に会津西街道最大の宿場町である田島に入り、軍の休息と再編成を行いました。ここに総督・大鳥圭介、副総督・山川大蔵の元に会津・旧幕府軍の連合軍(会幕軍)が結成され、今市、那須、白河方面で新政府軍と戦いを繰り広げる事になります。

さらに次の次に、リンドバーグが大西洋単独無着陸飛行に成功です。チャールズ・リンドバーグは「スピリットオブセントルイス号」でニューヨークのルーズベルト飛行場を飛び立ち、5月21日22時21分にパリのル・ブルジェ空港に着陸し、大西洋単独無着陸飛行に初めて成功しました。飛行距離は5810kmで飛行時間は33時間29分30秒でした。これによりリンドバーグは、ニューヨーク−パリ間を無着陸で飛んだ者に与えられる「オルティーグ賞」とその賞金25000ドル、さらに世界的な名声を得ました。無着陸飛行を達成した際にル・ブルジェ空港へ押し寄せた観客の数は、空港に入り切らなかった分も含めて延べ100万人といわれています。有名な言葉「翼よ、あれがパリの灯だ!」はこの時に誕生しました。

最後に、津山事件です。津山事件は、「津山三十人殺し」とも言われています。1938年5月21日未明に、岡山県苫田郡西加茂村大字行重(現・津山市加茂町行重)の貝尾・坂元両集落で発生した大量殺人事件です。2時間足らずで30名(自殺した犯人を含めると31名)が死亡し、3名が重軽傷を負うという犠牲者数が「オウム真理教事件(27名)」を上回る日本の犯罪史上最大の殺戮事件です。都井睦雄は、2歳の時に父を、3歳の時に母をともに肺結核で亡くしたため、祖母が後見人となりました。近隣の女性達とこの地域での風習でもあった「夜這い」で関係を持つようになりました。しかし、1937年に徴兵検査を受けた際に、結核を理由に不合格とされました。これにより、これまで関係を持った女性たちに関係を拒絶されるようになりました。都井睦雄が祖母の病気治療のため、味噌汁に薬を入れているところを祖母に目撃され「孫に毒殺される」と大騒ぎして、警察に訴えられて家宅捜索を受けました。これにより、猟銃一式、日本刀・短刀・匕首などを押収され、猟銃免許も取り消されました。しかし、知人を通じて猟銃や弾薬を購入したり、刀剣愛好家から日本刀を譲り受けるなどの方法で、犯行準備を進めていきました。そして、以前懇意にしていて、他の村へ嫁いだ女性が村に里帰りしてきた1938年5月21日の深夜、犯行が行われました。都井睦雄は電柱によじ登って送電線を切断、貝尾集落のみを全面的に停電させました。最初に、自宅で就寝中の祖母の首を斧ではねて即死させました。その後、近隣の住人を約1時間半のうちに、次々と改造猟銃と日本刀で殺害していきました。最終的に事件の被害者は死者30名(即死28名、重傷のち死亡2名)、重軽傷者3名にのぼりました。その後、3.5km離れた「仙の城」と呼ばれていた荒坂峠の山頂で、遺書を書いた後に猟銃で自殺しました。遺体は翌朝になってから、山狩りで発見されました。付近には今でも昔ながらの墓所が点在しており、多数の墓石の享年日が「昭和13年5月21日」と刻まれています。この事から「津山事件」による被害者の墓である事がわかります。

今日の誕生日:親鸞、板垣退助、半藤一利、アグネス・ラム、原田貴和子、岡本健一(元男闘呼組)、米良美一、梨花、アレクサンダー・ダーレ・オーエン、パク・ギュリ(KARA)、NAMI(SCANDAL)、ネオユニヴァース

今日の記念日:小満、対話と発展のための世界文化多様性デー、小学校の日、リンドバーグ翼の日、ニキビの日

今日の「今日訓」:本日は、二十四節気の一つ「小満」です。「万物盈満(えいまん)すれば草木枝葉繁る」(万物が次第に成長して、一定の大きさに達して来るころ)という意味です。国際デーの一つ、2002年の国連総会で採択された「対話と発展のための世界文化多様性デー」、1869年、京都市に日本初の小学校「上京第二十七番組小学校」、「下京第十四番組小学校」が開校した事を記念して「小学校の日」、1927年、前日にニューヨークを出発したチャールズ・リンドバーグが、大西洋単独無着陸横断飛行を達成してパリに到着した事を記念して「リンドバーグ翼の日」、「5(いつも)2(ニキビは)1(皮膚科へ)」の語呂合わせで「ニキビの日」となりました。
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