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2015年05月20日04:45

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理由もなく、なぜか忘れがたい人物

 『悪魔と裏切り者』という本がある。ルソーとヒュームをめぐるものであり、筆者は山崎正一と串田孫一だが、私には、この串田孫一の名前を見るたびに思い出す人物がいる。串田一剣と名のっていた人物で、私と同じくアナキスト革命連合(ARF)に属し、共に、1970年開幕の大阪万博開催阻止闘争として位置づけられた1969年の大阪芸大夜襲闘争に参加した人物だ(大芸大には、万博開催のセレモニーで使用される電子楽器があったらしい)。というより当時の私は19歳であり、串田は3、4歳ほど年長になる。
 初めて会ったのは、いつなのか正確には覚えないが、かろうじて記憶しているのは、私が高校2年の頃、梅田の太融寺の会館の一室で行われた、大正期のアナキストで、大杉栄虐殺の報復をするとして中浜哲が組織したギロチン社についての話を、その生き残りの逸見吉三という老アナキストが話すという会だったと思う。ちなみにこの日は雨で、逸見は帰りに間違って私の傘をさして帰り、そこから逸見に張り付いていた公安が私のこと知り、まだ17歳の、何の活動もしていない私にも公安がつくようになり、後から知ったことだが、私は、いきなり大阪の公安要注意少年の4人の内の1人にされたのだった。ついでにいえば、この逸見吉三については、昨年、この近況でも書いたが、天王寺の大阪教育大で開かれた関西アナキズム研究会での発表で取り上げられていた。
 話を串田に戻せば、ARFの大芸大夜襲闘争は、公安が、マルクス主義系の極左とは別枠で特別に危険視していた過激なアナキストの組織的活動ということで、大阪府警はヘリコプター3台、ジープ40台、そして機動隊を含む1500名を動員して大芸大のある羽曳野一帯の山谷を包囲し、真夜中の大掛かりな山狩りを始めたのだった。私はこの時に逮捕されたが、串田の率いる隊は逃げたのだった。
 少年鑑別所を出て娑婆に戻ってから見た新聞によると、大芸大を夜襲したARFの襲撃部隊の一部が、河内飛鳥一帯における大阪府警の包囲網を突破して、夜中に大阪と奈良の県境にある二上山の山越えをして奈良の当麻寺の方に向かったとあった。奈良県警も500名ほど動員して包囲網を形成していたらしいから、串田とその隊は、それも突破したのだろう。串田とその隊と書いたが、大芸大夜襲の突入部隊は、出撃拠点の大阪教育大天王寺学舎で部隊の組織編成が行われ、総隊長、大隊長以下、各隊の隊長、副長の指揮下に各10名ほどの6つの隊から形成された。大芸大への突入も、また撤退も、全て各隊長と副長の指揮下に隊ごとに行うようになっていた。ちなみに私が属した隊の隊長の根来も、偶然に逮捕を免れ、全国指名手配となり、1971年頃に東京の明治公園で偶然に遭遇した(彼は1972年か73年に東京で逮捕されている)。
 アナキストというと絶対自由というようなことから、あまり組織性がないイメージがあるかもしれないが、ARFはボルシェヴィキ紛いの組織編成力を持って、戦後のアナキスト組織の中では最大の5〜600名ほどの組織として形成され、独自のゲバルト(武闘)部隊も持ち、敵対する他のアナキストからは「アナシェヴィキ(アナルコ・ボルシェヴィキの略か)と揶揄されていた。しかしその組織力において他のアナキストを凌駕していた。ARFには、バクーニン主義派とアナルコ・サンディカリスト派を主要な内部党派とし、大芸大夜襲はバクーニン主義派のゲバルト部隊によるものだったが、この闘争と10・21闘争の総括をめぐり、組織は事実上、分裂状態となる。
 1970年に反安保闘争で東京に行き、そのまま東京に住みだした私は、すっかり串田のことは忘れていたが、やはりARFの一員だった池田から再建話をされた時、その後の串田の消息を知った。彼は全国指名手配されながら3年ほど逃げ、入浴中の銭湯で逮捕されたらしい。私は串田とは親しくはなく、大した会話をした記憶もないが、なぜか、忘れがたい人物の1人でもある。
 
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