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2015年05月20日01:12

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5月20日の日記

今日の出来事:1183年−源平合戦:火打城の戦い、1293年−鎌倉大地震、1722年−享保の改革:流地禁止令を発布、1868年−戊辰戦争:佐貫藩家老・相場助右衛門暗殺、1869年−箱館戊辰戦争:新政府軍が乙部に上陸、1873年−ジーンズの誕生、1909年−「味の素」発売、1978年−新東京国際空港(成田国際空港)が開港

今日は、源平合戦:火打城の戦いです。1181年(養和元年)、北陸地方の豪族達による反平氏の活動が活発化していました。対する平氏は、平通盛、平経盛らが率いる軍を派遣しましたが、活発化した反乱勢力を鎮圧する事が出来ずに都に引き返しました。これが、「養和の北陸出兵」です。翌1182年、「養和の大飢饉」の影響が深刻化し、鎮西以外への出兵はされませんでした。1183年になると飢饉はようやく終息し、平氏は東国反乱勢力の討伐を再開します。その第一は、兵糧の供給地でもある北陸道の回復でした。1183年5月10日、平氏は平維盛を大将として北陸に出陣しました。5月19日には越前国に入り、20日に越前、加賀の反乱勢力が籠もる火打城を取り囲みました。火打城は、川を塞き止めて作った人工の湖に囲まれており、そのために平氏軍は城に攻め込む事が出来ませんでした。数日間、平氏は城を包囲していましたが、城に籠もっていた平泉寺斉明が平氏に内通して人造湖の破壊の仕方を教えました。平氏は、この情報を元に湖を決壊させて城を打ち破り、その後に火打城を落としました。その後、平氏は加賀国に入りました。

次に、鎌倉大地震です。鎌倉大地震は、1293年に関東地方で発生した地震です。建長寺を代表として多数の寺社仏閣が倒壊し、多数の死者が発生しました。翌日にも余震と思われる地震が発生し、建造物の倒壊のほか多数の土砂災害などが発生、23024人もの死者が出ました。また、この震災による混乱を利用し、鎌倉幕府執権・北条貞時は、当時幕府内で専横を振るっていた平頼綱邸襲撃を命令し、平頼綱父子の討伐に成功しました(平禅門の乱)。朝廷では、地震の発生や、この後発生した干魃等を重視し、「正応」から「永仁」への改元を行いました。

その次に、享保の改革:流地禁止令を発布です。江戸幕府が「流地禁止令」を発布しました。徳川吉宗の「享保の改革」で、田畑を質流れの形で売買する事を禁止しました。借金の元金を返済すれば質入した土地が戻ってくるなどしました。しかし、翌年廃止されます。

その次の次に、戊辰戦争:佐貫藩家老・相場助右衛門暗殺です。佐貫藩では、幕府脱走兵を援助する事に反対した勤皇派家老・相場助右衛門が、佐幕派の藩士31人に大手門で襲われて暗殺されました。その上、相場家は断絶、一家追放の処分となりました。加害者の佐幕派藩士31人は何の咎もありませんでした。こうして、佐貫藩は旧幕府軍に協力し、「富津陣屋襲撃事件」に加わる事になります。

そのまた次に、箱館戊辰戦争:新政府軍が乙部に上陸です。新政府は、青森に避難していた箱館府知事・清水谷公考を青森口総督に任命し、諸藩兵を結集して旧幕府軍の征討に入る事を命じました。しかし、松前藩が旧幕府軍に敗北した事で、箱館征討は翌年の雪解けを待って開始する事に決定しました。陸軍は、奥羽征討軍参謀・山田顕義を海陸軍参謀に任じ、松前藩、弘前藩兵を中心に約8000名が青森に集結しました。一方、海軍はアメリカから最新鋭の装甲軍艦「甲鉄」を購入し、増田虎之助を海軍参謀として、諸藩から軍艦を集めて艦隊を編成しました。新政府軍艦隊(「甲鉄」・「春日」・「陽春」・「丁卯」の軍艦4隻と「豊安丸」・「戊辰丸」・「晨風丸」・「飛龍丸」の運送船4隻)は、「甲鉄」を旗艦として品川沖を青森に向けて出帆、5月の蝦夷地上陸を目指しました。「甲鉄」を旗艦とする新政府艦隊は、途中の宮古で旧幕府軍の奇襲を受けました(宮古湾海戦)。しかし、これを撃退して青森へと到着しました。1969年5月20日早朝、海陸軍参謀・山田顕義が率いる新政府軍1500名が江差の北、乙部に上陸しました。旧幕府軍は上陸を阻止するため、江差から三木軍司が率いる一聯隊150名を派遣しましたが、上陸を終えていた新政府軍先鋒の松前兵によって撃退されました。陸兵が小競り合いを続けている間に、「春日丸」を中心とする新政府軍軍艦5隻は江差砲撃を開始しました。江差の砲台は反撃を試みましたが敵艦に砲弾は届かず、江差奉行・松岡四郎次郎ら旧幕府軍は松前方面に後退しました。

そのまた次の次に、ジーンズの誕生です。ジェイコブ・デイヴィスは、リーバイス社のリーバイ・ストラウスから仕入れたキャンバス生地を元に、銅リベットでポケットの両端を補強したワークパンツを発売しました。類似品が出回る事を危惧したジェイコブ・デイヴィスは、このリベット補強済みパンツの特許を取得しようとしましたが必要な資金が無く、権利を折半するという条件でリーバイ・ストラウス社に特許申請を依頼しました。特許申請は受理され、このリベット補強済みパンツはリーバイ・ストラウス社製の製品として製造販売されました。このパンツがジーンズの原型となりました。

さらに次に、「味の素」発売です。東京帝国大学教授の池田菊苗が、昆布のうま味成分はグルタミン酸ナトリウムである事を発見し、創業者の鈴木三郎助が工業化に成功しました。開発当初は「味精」という名称であったため、中国など漢字文化圏では現在も「味精」と呼ばれています。「味の素」を商標登録した際には、石油系材料の表記を巡って争われました。登録後「味の素」は、日本ではうま味調味料の代名詞となるほど普及しました。

最後に、新東京国際空港(成田国際空港)が開港です。しかし、「成田闘争」と呼ばれる熾烈な戦争がありました。佐藤栄作内閣は、建設予定地を同県成田市三里塚にする事を閣議決定しました。しかし、地元農民は買収に伴う移転や騒音問題から空港建設に猛烈に反発し「三里塚芝山連合空港反対同盟」を結成して、反対活動を始めました。さらに「新左翼」の若者達が「新空港は日本に新たな軍事基地を作るもの」という理由で農民による反対活動と連動しました(三里塚闘争)。用地買収は停滞したため、政府は土地収用法に基づき行政代執行を1971年に2回実行しました。1971年2月22日、第一次行政代執行(反対同盟と支援者3千名と機動隊が衝突、逮捕者461名、負傷者841名うち重傷43名)。1971年7月26日〜8月3日、公団・機動隊による「地下壕」攻撃(逮捕者290人、負傷者415人)、1971年9月16日、第二次行政代執行(数百名の「ゲリラ部隊」が各所で後方警備の機動隊を襲撃する。千葉県へ応援派遣されていた神奈川県警察特別機動隊員3名が火炎瓶による全身火傷・殴打により殉職、80名以上が負傷しました「東峰十字路事件」。この日の逮捕者375名)。10月1日、青年行動隊員・三ノ宮文男が「空港をこの地にもってきた者を憎む」と遺書を残して自殺しました。こうしてようやく、1期工事の用地を取得しました。反対派は鉄塔を建てて対抗していましたが、1977年5月6日にこの鉄塔は撤去されました。これに抗議する集会で反対派と機動隊が激突し、学生1名が死亡しました。また、芝山町長宅警官詰め所が襲撃され、警察官1名が殉職しました。開港4日前の1978年3月26日、成田空港に反対派ゲリラが警察官らの隙を見て管制塔に乱入し、管制塔内の機器を破壊しました(成田空港管制塔占拠事件)。このため開港が5月20日まで延期となりました。関連して1978年5月5日には京成電鉄の特急「スカイライナー」用車両が宗吾車庫で放火されて1両が焼失し、数編成が被害(後に復旧)を受け、ダイヤに支障をきたしました(京成スカイライナー放火事件)。開港後も過激派の活動が続き、警察は厳重な警備を敷きました。それ以後も反対派によるテロ・ゲリラ事件などが多発しました。1985年10月20日には、千葉県成田市の三里塚交差点で極左グループと警視庁機動隊が衝突した事件が発生しました(10.20成田現地闘争、241人を公務執行妨害等で現行犯逮捕)。1988年9月21日、成田空港の土地問題を担当する千葉県収用委員会会長が千葉市内の帰宅中に武装した数人の男に襲撃され、瀕死の重傷を負いました。事件後中核派が犯行を自認(千葉県収用委員会会長襲撃事件)。これらの事件により正常な運営、2期工事の着工ができませんでしたが、1991年11月から隅谷三喜男東京大学名誉教授のほか4名の学識経験者(隅谷調査団)主宰のもと、成田空港問題シンポジウムが15回にわたって開催されました。引き続き1993年9月から12回にわたって開催された「成田空港問題円卓会議」で、今後の成田空港の整備を民主的手続きで進めていく事が確認されました。円卓会議の結論を受け、最終的には1995年に村山富市首相が謝罪、これを地元が受け入れて、2期工事への用地買収に応じました。懸案の2期工事のうち平行滑走路については、1996年には未買収地を避ける形で暫定滑走路を建設する案が計画され、2002年に暫定供用を開始しました。ドイツのミュンヘン国際空港はこのような紛争を避けるため、徹底して成田空港の事例を研究し、反対派を十分に説得した上で建設されました。日本でも成田での経験をもとに、関西国際空港や中部国際空港などの空港は、騒音問題などが発生しにくい海上かつ郊外に造られるようになりました。

今日の誕生日:高村智恵子、前畑秀子、相田みつを、王貞治、真理アンヌ、野田佳彦(第95代内閣総理大臣)、ラルフ・ブライアント、益子直美、高橋和也(元男闘呼組)、河村隆一(LUNA SEA)、光浦靖子、里崎智也、永井大、ハーフナー・マイク、長瀬実夕「MIYU」(元ZONE)

今日の記念日:世界計量記念日、東京港開港記念日、ローマ字の日、森林(もり)の日

今日の「今日訓」:本日は、1875年に「メートル条約」が締結された事で「世界計量記念日」、1941年に東京港の芝浦・竹芝の両埠頭が完成し、外国貿易港として開港指定を受けた事で「東京港開港記念日」、「ローマ字国字論」を展開した物理学者・田中舘愛橘の1952年5月21日の命日にちなみ、きりのいい20日を記念日とした「ローマ字の日」、5月は「森林」の中に「木」が5つ入っている事、20日は「森林」の総画数が20画である事から「森林(もり)の日」となりました。
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