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2015年05月19日16:49

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小学校に残る防空壕

身近な所から太平洋戦争を知る・体験する仔グマ流「大東亜戦争ダークツーリズム長崎原爆編」

今年は戦後70年。
長崎原爆投下から70年です。

GWに長崎原爆爆心地を巡りましたので、ご紹介致します。


前回き引き続き山里国民学校(現:山里小学校)です。


●旧山里国民学校防空壕跡

戦時中、グランドの東側と北側の崖に空襲から命を守るため1944年から45年にかけて、18カ所の防空壕が掘られていました。
当時、この壕は近くの浜口町、上野町の住民が避難所に利用していました。
戦後、防空壕はいくつか残っていましたが、その後埋められて、1カ所だけ「2度とこんなことがないように、平和への決意と平和を語り継ぐ場所として」この防空壕が残されたと、説明板に記されています。

原爆投下当日、新しく防空壕を掘る作業をしていた先生方や近所の人たちがこの崖にたたきつけられ壕の中外で亡くなりました。
熱線や放射線、爆風を受け負傷した人々がこの防空壕に避難したが、多くの方がこの中で亡くなっています。
 現在三つの防空壕が、裏門石柱とともに残されています。


●証言(『原子雲の下に生きて』より)

「すぐ近くの防空壕を掘っていた。
つるはしを置き、斜面の長さを測ろうとした時、爆音を聞いて慌てて壕の中へ入った。
次の瞬間、たくさんの雷がいっぺんに落ちたような音がして熱風が吹きつけた。
数分後外に出ると、青空がなくなり、真っ暗になっていた。
同僚の教師は全員なぎ倒され、吹き飛ばされていた。
衣類は脱げ、焼けただれた皮膚が垂れ下がっていた。
即死を免れた教師に水を、食料を、と駆けずりまわった数日間、あまりに死者が多すぎて涙を流す暇さえなかった」
(林英之先生 当時、山里小学校教師、26歳)

「ピカッーと光ってしまった。
そして僕は、強い風で、壕の壁にたたきつけられた。
しばらくして、僕が防空壕の外をのぞいてみたら、運動場一面に、人間がまいてあるみたいだった。」

(辻本一二夫さん、当時5歳) 

● あの子らの碑(正面玄関前方の築山中央にある石碑)

「子どもたちよ、あの日死んだ友を忘れるな!」
被爆から4年目(昭和24年)の春、病床にあった永井隆博士の発案により、生き残った子供たちが体験し、目に焼きついている原爆の悲惨さを広く社会に知ってもらうため、その被爆体験を作文にまとめ、子供37名と教師2名の体験談が載せられた作文集「原子雲の下に生きて」の本が出版された。
そして、子供たちはその印税(原稿料)の一部を出し合い、永井博士の寄付と協力をえて、亡くなった友達の冥福と世界平和を願って記念碑「あの子らの碑」を建てた。
昭和24年(1949)11月3日に除幕式が行われた。
白御影石の石碑は碑銘も作者名もない。
清楚な碑の中に、少女像の銅板レリーフがはめ込まれている。
おかっぱ頭でモンペ姿の少女が原爆で燃え盛る炎の中でひざまずき天に向かって合掌し祈っている。
亡くなった子供たちの慰霊と世界平和を祈る姿の少女の石碑です。

「永井隆博士の言葉から」
「・・・この石碑に敬礼しろ、などと強制するようになったらだめですね。
・・・この石の上に子どもたちが乗って遊んでいいじゃないですか。
石碑が高かったり、細長かったりすると遊ぶのに危険ですから、ずんぐりして低い危険のない石碑にしてもらいました。
長い年月の間には、この石碑が何のために建ったのか、分からなくなるかもしれません。
でも、子どもたちは遊びながら「この石碑の絵は何をしているのだろう。
平和っていったいどういうわけだろう。
むかし、何千何万の人が原爆で死んだげな、じいちゃんがそう言いよったばい・・・。」などと話し合うでしょう。
建設者の名前だとか年月日とか、そんなものはいっさい書かないほうがいいですね。
死んだ兄弟姉妹や子や親をいたむために、そして、平和を求めるためにですね・・・。」


山里小学校では、毎年11月2日に「あの子」の歌を歌っています。
レリーフは大司星七氏の作で、「あの子らの碑」の文字は永井博士の揮毫(きごう)です。

「あの子」
(作詞・永井隆 作曲・木野普見雄)

壁にのこったらくがきの
幼い文字のあの子の名
よんでひそかに耳すます
ああ ああ
あの子が生きていたならば


この世の地獄、悲惨な惨状・・・にも関わらす声高に訴えないその姿勢がより一層ジワジワと心に染みてきます(涙)。


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