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2015年05月19日00:47

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5月19日の日記

今日の出来事:802年−坂上田村麻呂の東北征討:蝦夷の頭領・阿弖流爲(アテルイ)が征夷大将軍・坂上田村麻呂に降伏、1546年−河越夜戦、1689年−奥の細道:松尾芭蕉が日光に到着、1941年−ホー・チ・ミンらがベトミン(ベトナム独立同盟会)を結成、1952年−後楽園スタジアムでのNBA世界フライ級王座戦で指名挑戦者・白井義男がダド・マリノに判定勝ちをし、日本人初のプロボクシング世界王者となる

今日は、蝦夷の頭領・阿弖流爲(アテルイ)が征夷大将軍・坂上田村麻呂に降伏です。「坂上田村麻呂の東北征討」で蝦夷の頭領・阿弖流爲(アテルイ)が降伏しました。桓武天皇は東北地方を侵略して「蝦夷」を服属させるため、蝦夷に侵攻をしました。しかし、朝廷軍は幾度も蝦夷と交戦し、侵攻を試みては撃退されていました。征東将軍・紀古佐美が率いる遠征軍は、桓武天皇の叱責を受けて行動を起こしました。北上川の西に3箇所に分かれて駐屯していた朝廷軍のうち、中軍と後軍の4000が川を渡って東岸を進みました。この主力軍は、アテルイの居のあたりで蝦夷軍約300と交戦しました。初めは朝廷軍が優勢で、蝦夷軍を追って巣伏村(現・奥州市水沢区)に至りました。そこで前軍と合流しようとしましたが、前軍は蝦夷軍に阻まれて渡河できませんでした。その時、蝦夷側に約800が加わって反撃に転じ、更に東山から蝦夷軍約400が現れて後方を塞ぎました。朝廷軍は壊走し、別将・丈部善理ら戦死者25人、矢にあたる者245人、川で溺死する者1036人、裸身で泳ぎ来る者1257人の損害を出しました。こうして、征東将軍・紀古佐美が率いる遠征軍は、阿弖流爲が率いる蝦夷軍に大敗しました(巣伏の戦い)。この敗戦で、紀古佐美の遠征は失敗に終わりました。蝦夷軍は、その後に編成された征夷大将軍・大伴弟麻呂(初の征夷大将軍)と副将・坂上田村麻呂の遠征軍と交戦しました。そして、副将・坂上田村麻呂が功を挙げると大伴弟麻呂と取って代わりました。そして、征夷大将軍となった坂上田村麻呂に阿弖利爲が率いる蝦夷軍は敗れて降伏しました。坂上田村麻呂は阿弖利爲と母礼(モレ)を助命するように提言しましたが、「平安京」の貴族たちが反対して処刑されました。この後、坂上田村麻呂は蝦夷に胆沢城と志波城を造営します。

次に、河越夜戦です。「河越夜戦」は、北条氏康が約10倍の兵力差を覆して勝利した「日本三大奇襲」の一つです。関東地方の覇権を巡り、古河公方と関東管領が対立した「享徳の乱」、関東管領・上杉氏の内部争いである山内上杉家と扇谷上杉家との対立「長享の乱」、その間で相模の北条早雲が台頭して勢力を拡げました。北条早雲の子・北条氏綱は、古河公方と関東管領の双方が内紛「永正の乱」で混乱する中、武蔵に進出して江戸城を奪い「高輪原の戦い」、さらに扇谷上杉家の本拠地の河越城を落として扇谷上杉家を滅亡寸前まで追い詰めました。しかし、北条氏綱が没して後を継いだ北条氏康は、危機を迎えました。今川義元が関東管領の山内上杉家や扇谷上杉家と内通して背後から挙兵、駿河の北条領に侵攻しました。さらに武田信玄も出陣して来ました。そして両上杉氏の大軍によって河越城が包囲されました。そのため北条氏康は、武田信玄の斡旋で今川義元に譲歩する屈辱的な和睦をしました(第二次河東一乱)。これで北条氏康は関東へ専念できるようになりました。関東では、北条氏康の義兄弟であった古河公方・足利晴氏が、関東管領・山内上杉家と扇谷上杉家の両上杉家の要請に応じて兵を動員しました。三氏は同盟を締結して北条氏への総反撃を決定し、関東の武士すべてに号令をかけました。上杉憲政、上杉朝定、足利晴氏が自ら軍を率いて北条氏の拠点・河越城を攻撃、関東諸大名連合軍は約8万人の大軍で北条氏の河越城を包囲しました。河越城は北条氏康の義弟・北条綱成が約3000の兵で守備していました。北条氏康は約8000の兵を率いて救援に向かいました。北条氏康の救援軍にいた福島勝広(北条綱成の弟)が使者を申し出て、単騎で上杉連合軍の重囲を抜けて河越城に入城し、兄の綱成に奇襲の計画を伝えました。北条氏康は上杉軍に対して偽りの降伏を申し出ました。まず、足利晴氏に対して諏訪左馬助に依頼して「城兵を助命してくれれば城は明け渡す」と申し入れました。上杉方には常陸の小田政治の家臣である菅谷貞次に依頼して「綱成を助命してくれるならば開城し和議の上、我らは公方家に仕えます」と申し入れました。しかし、上杉軍は受け入れず、逆に北条軍を攻撃しましたが北条氏康は戦わずに兵を引きました。北条氏康は自軍8000を四隊に分けました。一隊を多目元忠に指揮させ、戦闘終了まで動かないように命じました。そして北条氏康自身は残り三隊を率いて敵陣へ向かいました。子の刻(午前0時頃)、北条氏康は兵士たちに鎧兜を脱がせて身軽にさせ、上杉連合軍に突入しました。上杉軍は大混乱に陥り、扇谷上杉軍では当主の上杉朝定、難波田憲重が討死、山内上杉軍では上杉憲政はなんとか戦場を脱出しましたが、重鎮の本間近江守、倉賀野行政が退却戦で討死しました。北条氏康は上杉勢を追い散らして敵陣深くに切り込みましたが、戦況を後方より見守っていた多目元忠が危険を察して、法螺貝を吹かせて氏康軍を引き上げさせました。城内で待機していた「地黄八幡」こと北条綱成はこの機を捉えて打って出ると、足利晴氏の陣に突入しました。連合軍の死傷者は13000人〜16000人と言われています。この戦いの結果、当主を失った扇谷上杉家は滅亡しました。本拠・平井城へ敗走した関東管領の山内上杉家も急速に勢力を失い、武田氏との合戦に敗れた上杉憲政が居城の平井城を追われ、越後の長尾景虎(後の上杉謙信)を頼る事になります。古河公方の足利晴氏もこの直後に御所を包囲されて降伏、隠居して長男・藤氏ではなく、北条氏出身の母をもつ次男・義氏に家督を譲らざるを得なくなりました。長尾景虎は上杉憲政から上杉姓と関東管領職を譲り受け、一字拝領して上杉政虎と名乗って関東の覇権を北条家から奪い返すために「関東征伐」を行う事になります。一方、北条家は関東南西部で勢力を拡大し、「甲相駿三国同盟」を締結して駿河・今川家や甲斐・武田家との対立に終止符を打ち、越後・上杉家や常陸・佐竹家、安房・里見家との抗争を始める事になります。

最後に、奥の細道:松尾芭蕉が日光に到着です。「奥の細道」で松尾芭蕉が日光に到着しました。まず、水戸家代々の宿坊・養源院を訪ねました。その後、「東照宮」を参拝し、「二荒山神社」、「裏見の滝」、「含満ヶ淵」を巡りました。そして、この句を残しました。「あらたふと 青葉若葉の 日の光」:日光

今日の誕生日:星亨、ホー・チ・ミン、マルコムX、ポル・ポト、アンドレ・ザ・ジャイアント、安藤政信、島袋光年、芹那(元SDN48)、ルーキタエ(あやまんJAPAN)、澤部佑(ハライチ)、神木隆之介、マルゼンスキー

今日の記念日:ボクシングの日、セメントの日

今日の「今日訓」:本日は、白井義男が日本人初のプロボクシング世界王者となった事で「ボクシングの日」、1875年、官営深川セメント製造所で宇都宮三郎らが国産初のポルトランドセメントの製造に成功した事を記念して「セメントの日」となりました。
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