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2015年05月18日01:01

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5月18日の日記

今日の出来事:1534年−稲村の変、1584年−小牧・長久手の戦い:長久手の戦い、1729年−天一坊改行が処刑される(天一坊事件)、1936年−阿部定事件、1944年−第二次世界大戦:モンテ・カッシーノの戦いが終結

今日は、稲村の変です。稲村の変は、1533年〜翌1534年にかけて、安房・里見氏で発生した内紛です。1518年、里見義通が危篤となった時、嫡男・義豊はまだ5歳でした。そこで、義通の弟・実堯が義豊が15歳になるまで陣代(後見人)として家督を預かる事になりました。そこで、里見実堯は稲村城に入り、義豊は支城の宮本城へ、実堯の子・義堯は上総・金谷城に入りました。ところが、義豊が15歳になっても、里見実堯は北条氏綱の上総への侵攻を理由に家督移譲を延期していました。また、三浦氏嫡流の末裔である新参の正木通綱が筆頭重臣に抜擢された事に、里見義豊の側近らが激しく嫉妬していました。里見義豊が二十歳になった1533年になって、北条氏の侵攻が収まったため、里見実堯は義豊への家督移譲しました。里見義豊は家督を継いで稲村城に入り、叔父・実堯とその子・義堯は上総・金谷城に入りました。しかし、北条氏綱は上総へ侵攻するための最大障害である里見義豊を牽制・排除をするため、里見実堯や水軍を掌握する側近・正木通綱に接近しました。この動きを見た里見義豊や正木水軍の台頭に危機感を抱く譜代の重臣らは、小弓公方・足利義明の了承の元に1533年8月17日の夜、里見実堯と正木通綱を稲村城に呼んで誅殺しました。その後、里見義豊は直ちに金谷城の里見義堯を攻撃しました。里見義堯は、正木時茂・時忠兄弟と百首城に籠城して盟友・北条氏綱に援助を求めました。里見義豊の水軍と北条為昌が派遣した北条水軍が保田妙本寺付近で衝突しました。里見水軍は三浦半島を攻撃して北条氏と里見義堯との連絡を断とうとしましたが、いずれも失敗しました。北条軍の援助を受けた里見義堯は反撃をし、安房国内で稲村城に次ぐ要地・滝田城が陥落させました。安房国から追われた里見義豊は、上総の真里谷信清の元へ逃走しました。里見義豊は真里谷氏領であった久留里城の支城・大戸城(現・君津市)を拠点に再起を図りました。翌1534年5月18日、里見義豊は安房に再び入りました。里見義堯は、北条氏綱らの援軍を受けて全軍を率いて上総を出発しました。里見義堯は出発前、密かに全軍で迂回して安房にいる里見義豊のいる稲村城を直接奇襲するつもりであるとの噂を流しました。これを信じた里見義豊が先手を打つため上総に向かって兵を北上させると、犬掛(現・千葉県南房総市)で里見義堯軍の待ち伏せに遭いました。突然の奇襲に混乱に陥った里見義豊軍は潰走し、勢いに乗じた里見義堯軍は義豊が籠城を図ろうとした稲村城内に突入しました。こうして、里見義豊は「犬掛の戦い」で大敗を喫し、自害しました。稲村城は、そのまま廃城となりました。その後、里見氏の家督を得た里見義堯は、真里谷信清が里見義豊の救援失敗による足利義明の勘気を受けたまま病死すると、一転して義明の意向を受けて真里谷氏の当主となった真里谷信隆の追放に加担します。真里谷信隆を支援する北条氏綱との同盟を破棄します。これによって、再び北条氏と里見氏は敵対関係となるのです。

次に、小牧・長久手の戦い:長久手の戦いです。「小牧・長久手の戦い」とは、羽柴秀吉陣営と織田信雄・徳川家康陣営の間で行われた戦いです。織田信雄は羽柴秀吉によって安土城を退去させられました。これにより織田信雄と羽柴秀吉の関係は険悪化しました。秀吉は織田信雄の家臣・津川義冬、岡田重孝、浅井長時の3家老を懐柔して傘下に組み込もうとしましたが、織田信雄は親秀吉派の三家老を処刑し、徳川家康と同盟を結びました。こうして徳川家康は挙兵し、実質的に秀吉と家康との戦いとなりました。前半は小牧山周辺の戦いでした。
羽黒の戦い:家康が清洲城に到着したその日、織田氏譜代の家臣で織田軍に与すると見られていた池田恒興が突如、羽柴軍に寝返って犬山城を占拠しました。家康はこれに対抗するため、小牧山城に駆けつけました。同時に羽柴軍の森長可も小牧山城を狙っていました。森長可は尾藤知宣に小牧山攻めの許可を求め、承認を得ると森長可と尾藤知宣は夕方に出撃し、夜半には小牧山城を指呼の間に望む羽黒に着陣しました。しかし、すぐに徳川軍に知られ、酒井忠次、榊原康政ら5000人の兵が羽黒へ向けて密かに出陣しました。酒井勢は森勢を一気に奇襲し、森勢は支えきれずに潰走しました。
後半は長久手周辺での戦いが中心となりました。
小牧山の対陣:秀吉は大坂城を出発し、楽田に着陣しました。家康が小牧山城に入ってから秀吉の楽田到着までの間、両軍が砦の修築や土塁の構築を行った為、双方共に手が出せなくなり、戦況は全くの膠着状態に陥りました。この状況を打開するため秀吉は徳川軍の陣地帯を迂回し、家康の本拠地である三河国の岡崎城へと向けて出撃しました。
岩崎城の戦い:池田恒興勢が丹羽氏重(氏次の弟)が守備する岩崎城の攻城戦を開始しました。城主・丹羽氏次は徳川家康に従って小牧に出陣していたため、氏次の弟・丹羽氏重(16歳)が守っていました。三河奇襲部隊は、池田恒興・元助父子の7000と、堀秀政5000でした。森長可3000の別動隊は、一色城と長鍬城を焼き討ちしました。この火の手を見た岩崎城の留守を預かる丹羽氏重と、長鍬城の城主・加藤景常は偵察を出し、松明を持たずに行軍する敵軍を確認すると、「見過ごすは末代までの恥」と城兵を招集して午前4時に200の兵で出撃し、先制攻撃を仕掛けました。これに対して池田軍が反撃すると、岩崎城守備隊は引き上げました。これにより、岩崎城攻囲指示が出されました。午前5時に伊木忠次が大手門に向けて2000の兵で当たり、片桐俊忠が搦手門へ2000で攻撃する事となりました。これに対し、丹羽氏重は大手門より撃って出て、攻城隊を3度撃退しました。この反撃で、攻城隊は空濠に落ちて負傷する者が出ました。丹羽氏重は、城外の石橋付近で奮闘の最中に、岐阜根より南下して来た森長可隊によって、竹の山より火縄銃で威嚇をされ怯んだ隙に討ち取られました。手薄な北西部の破所より、森長可隊が乱入すると大混乱に陥り、午前7時落城しました。丹羽氏重の弟・伝七郎や四郎右衛門も討死しました。こうして、約3時間で岩崎城は落城しました。
白山林の戦い:岩崎城で攻城戦が行われている頃、羽柴秀次勢は後方から水野忠重・丹羽氏次・大須賀康高勢、側面から榊原康政勢の一斉攻撃に見舞われました。この奇襲によって羽柴秀次勢は成す術なく潰滅しました。羽柴秀次は自身の馬を失い、供回りの馬で辛くも逃げ遂せました。また、目付として付けられていた木下祐久やその弟・木下利匡を初めとして多くの木下一族が、羽柴秀次の退路を確保するために討死しました。
桧ケ根の戦い:羽柴秀次勢より前にいた堀秀政勢に、羽柴秀次勢の敗報が届いたのは約2時間も後の事でした。堀秀政勢は直ちに引き返し、羽柴秀次勢の敗残兵を組み込んで桧ケ根に陣を敷き、迫り来る徳川軍を待ち構えました。羽柴秀次勢を撃破して勢いに乗った徳川軍は、ほどなく檜ヶ根辺りで堀勢に襲い掛かりましたが、戦上手な事から「名人久太郎」と尊称される堀秀政の前に敗退しました。
長久手の戦い:この間、家康は羽柴軍を分断するために迂回し、長久手を見渡せる色金山に着陣しました。そこで別働隊の敗退を知り、堀勢後方の「御旗山」と呼ばれる高地へ前進して池田恒興・森長可勢との間を分断しました。そして、ついに両軍が激突しました。両軍入り乱れての死闘は2時間余り続きました。戦況は一進一退の攻防が続きましたが、森長可が鉄砲隊の銃弾を眉間に受け討死した辺りから、一気に徳川軍有利となりました。池田恒興も自勢の立て直しを図ろうとしましたが、永井直勝の槍を受けて討死しました。池田元助も安藤直次に討ち取られ、池田輝政は家臣に父・兄は既に戦場を離脱したと説得され、戦場を離脱しました。やがて池田・森勢は四散し遭えなく潰滅しました。合戦は徳川軍の大勝利に終わり、ただちに小幡城に引き返しました。羽柴軍に2500人余り、徳川軍には550人余りの死者が出ました。これが「長久手の戦い」です。
その後:秀吉は威力偵察として小牧山へ攻撃をしかけましたが、敗退しました。「白山林の戦い」の敗報が届き、秀吉は2万人の軍勢を率いて戦場近くの竜泉寺に向けて急行しました。しかし、500人の本多忠勝勢に行軍を妨害されました。「家康は小幡城にいる」との報を受け、翌朝の攻撃を決めました。家康はこの間に小幡城を出て小牧山城、ついで清洲城に帰還しました。秀吉はしばらく後になってこの報を聞き、楽田に退きました。この後、楽田からも撤退して大坂城に帰還しました。この「小牧・長久手の戦い」で徳川家康は勝利しましたが、秀吉に臣従する事になります。

その次に天一坊事件です。浪人・本多儀左衛門が関東郡代・伊奈忠逵の屋敷を訪ね、南品川宿の山伏・常楽院方に将軍の血筋で源氏天一坊なる人物が近々大名にお取り立てになると称し、浪人を大勢召抱えて役儀などを与えているとの問い合わせがありました。伊奈忠逵は常楽院の名主、地主を呼びつけて尋問しました。取り調べの結果、常楽院方で浪人を集めているのは改行という山伏で、紀州生まれで将軍・吉宗の落胤を称している事が解りました。伊奈忠逵は天一坊と常楽院(天一坊の家老と称し、赤川大膳と名乗っている)、その他の関係者を郡代屋敷へ呼びつけて詮議しました。天一坊の口上によれば、紀州田辺の生まれで、母が城へ奉公へ出て妊娠したので実家へ帰されて産まれた。その後、母と江戸へ出て、母は町人と縁づいた。母は由緒書などを持っていたがこれは焼失してしまった。母から「吉」の字を大切にせよと言い聞かされていた。これらの事から、自分は公方様の御落胤であり、近々大名に取り立てられると考え、浪人たちの来るにまかせたという事でした。天一坊は浪人を常楽院方に集めて大名に取り立ての際は、役職を与えると約束していました。天一坊は公方様の御落胤を騙り、みだりに浪人を集めたとして捕らえられました。取り調べにあたった勘定奉行・稲生正武に見破られ死罪となりました。品川の鈴ヶ森刑場で処刑され、獄門となりました。天一坊のもとに集まっていた常楽院や浪人たちも遠島や江戸払いとなり、名主や地主も罰を受けました。検挙の端緒をつくった浪人・本多儀左衛門には銀5枚の褒美が与えられました。

最後に第二次世界大戦:モンテ・カッシーノの戦いです。連合軍のイタリア戦線における「グスタフ・ライン」の突破およびローマ解放のために企画されました。カッシーノの街を見渡せる山頂にあった修道院に対し、アメリカ軍は1400トンに及ぶ爆弾で修道院を爆撃し、修道院は破壊されました。爆撃の2日後、ドイツ軍降下猟兵がこの廃墟を守備するために投入されました。「グスタフ・ライン」守備隊は連合軍の4度に渡る攻撃をうけました。この間連合軍は32kmの前線に20個師団を投入しドイツ軍を駆逐しましたが、10万人以上の甚大な損害を被りました。

今日の誕生日:中山忠光、南方熊楠、ニコライ2世、ヨハネ・パウロ2世、寺尾聰、東尾修、カルメン・マキ、尾崎直道、山崎ハコ、飯島真理、飯田哲也、槇原敬之、信田美帆(元太陽とシスコムーン)、無法松(ほたるゲンジ、元北京ゲンジ)、中村七之助 (2代目)、瀬戸康史、SOL(BIGBANG)

今日の記念日:国際博物館の日、国際善意デー、世界エイズワクチンデー、18リットル缶の日、ファイバーの日、ことばの日、ベビーブームの日、ネット生保の日、サロンパスの日

今日の「今日訓」:本日は、「国際博物館会議(ICOM)」が1977年に制定した「国際博物館の日」、1899年にオランダ・ハーグで「第1回万国平和会議」が開催された事を記念して「国際善意デー」、1998年、アメリカのモーガン州立大学で当時のアメリカ大統領ビル・クリントンが10年以内にエイズのワクチンを開発すると述べた事で「世界エイズワクチンデー」、2008年5月18日に「ライフネット生命」が営業を開始した事で「ネット生保の日」、かつて「一斗缶」と呼ばれていましたが、戦後は「5ガロン缶」と呼ばれるようになり、後に「18リットル缶」が正式名称となった事で「5ガロンの5と18リットルの18」で「18リットル缶の日」、「ファ(5=ファイブ)イ(1)バー(8)」の語呂合わせで「ファイバーの日」、「こ(5)とば(18)」の語呂合わせで「ことばの日」、「子(5)がいっぱい(18)」の語呂合わせで「ベビーブームの日」、「こ(5)り を癒(18)す」の語呂合わせで「サロンパスの日」となりました。
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