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2015年05月15日00:10

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5月15日の日記

今日の出来事:593年−聖徳太子が推古天皇の摂政に就任、649年−蘇我倉山田石川麻呂が山田寺で自害、1588年−豊前国人一揆:城井鎮房謀殺、1868年−北関東戊辰戦争:第二次宇都宮城の戦い、1868年−戊辰戦争:水戸藩家老・鈴木重棟斬首、1932年−五・一五事件、1966年−テレビ番組「笑点」放送開始、1972年−沖縄返還、1974年−セブンイレブンの日本1号店が東京都で開店、1993年−Jリーグ開幕(ヴェルディ川崎対横浜マリノス)

今日は、聖徳太子が推古天皇の摂政に就任です。本名は厩戸皇子、父は用明天皇です。一度に10人の話を聞いた「豊聡耳」と言われています。天皇家史上初の女帝・推古天皇の摂政として蘇我馬子と政治を行いました。以下は、聖徳太子の行った事を順番に記載しました。
1.「物部氏」討伐
2.摂津国難波に「四天王寺」を建立し、仏教興隆の詔を発する。
3.「新羅」征討の軍を出し、「調」を貢ぐことを約束させる。
4.「斑鳩宮」(法隆寺)造営。
5.「冠位十二階」を定め、氏姓制ではなく才能を基準に人材を登用し、天皇の「中央集権国家体制」を確立。
6.「十七条憲法」を制定、豪族たちに臣下としての心構えを示し、天皇に従い仏法を敬うことを法制化。
7.「遣隋使」を派遣し、中国の進んだ文化や制度をとりいれる。
8.「三経義疏」を著す。
9.歴史書「国記」、「天皇記」を編纂する。

次に、蘇我倉山田石川麻呂が山田寺で自害です。蘇我倉山田石川麻呂は、蘇我馬子の子・蘇我倉麻呂の子で、蘇我蝦夷は伯父、蘇我入鹿は従兄弟です。645年、中大兄皇子が中臣鎌足と共謀して蘇我入鹿の誅殺を謀った「乙巳の変」で、その暗殺の合図となる朝鮮使の上表文を大極殿で読み上げました。その時、暗殺が中々実行されなかったため、文を読み上げながら震えて冷や汗をかいていました。その事を不審に思った蘇我入鹿に「何故震えている」と問われましたが、石川麻呂は「帝の御前だからです」と答えました。蘇我入鹿暗殺後、脱出した古人大兄皇子が述べた「韓人(からひと)、鞍作(入鹿)を殺しつ」の韓人は、先祖にその名を持つ蘇我倉山田石川麻呂を指すと言われています。その後、大化改新政府にで右大臣に任命されました。649年、異母弟・日向に石川麻呂が謀反を起こそうとしていると密告されました。そして、孝徳天皇により兵が派遣されたため、長男・興志ら妻子と共に山田寺で自害しました。この事件は、中大兄皇子と中臣鎌足の陰謀であったとされています。中大兄皇子の妃となった娘・遠智娘は、大田皇女(大津皇子の母)、鸕野讚良皇女(後の持統天皇)、建皇子を、またもう一人の娘・姪娘は御名部皇女(高市皇子妃、長屋王の母)と阿閇皇女(後の元明天皇)を産んでいます。

その次に、豊前国人一揆:城井鎮房謀殺です。城井(宇都宮)鎮房は、城井氏第16代当主で城井谷城主です。怪力無双の人物で、強弓の使い手です。父・城井長房が本家の下野・宇都宮氏の内紛へ介入したため、領国の管理を任されていました。最初は大内義隆に属していましたが、陶晴賢の謀反で殺されると豊前国に支配権を確立した大友宗麟に服属しました。正室に大友宗麟の妹を娶り、一字を拝領して「貞房」から「鎮房」と名を改めました。しかし、1578年に大友氏が「耳川の戦い」で敗れて衰退すると、薩摩の島津義久に属しました。1586年より始まる豊臣秀吉の「九州征伐」により、城井鎮房も従う事となりましたが病気と称して出陣せず、息子・朝房に僅かな手勢を任せました。このため、豊臣秀吉の不信を招きました。1587年、豊臣秀吉は城井鎮房に伊予国への移封と安国寺恵瓊を通じて、城井鎮房が所持する藤原定家の「小倉色紙」の引渡しを命じました。父祖伝来の地に固執し、家宝を守りたい城井鎮房は反発し、朱印状の受け取りを拒否して豊臣秀吉の怒りを買いました。豊前国は北半分を毛利勝信、南半分を黒田官兵衛が領有する事になりました。新たに豊前6郡の領主となった黒田官兵衛と、不穏な空気が流れました。毛利勝信は城井鎮房に一度、城井谷城を出て、その後に豊臣秀吉へ嘆願を行う事を提案しました。このため、城井鎮房は城井谷城を明け渡しました。しかし、豊臣秀吉は頑として城井氏の本領安堵を拒否しました。城井鎮房はついに決断し、城井谷城を急襲して奪回しました。そして、籠城して豊臣軍を迎え撃つこ事となりました。これに呼応して豊前の国人衆が蜂起し、「豊前国人一揆」となりました。地の利のある城井鎮房はゲリラ作戦により、攻撃してきた黒田長政が率いる軍を撃退しました。勝間田重晴が討死、大野小弁は黒田長政の身替りとなって討死しました。天険の要塞である城井谷城攻略に苦戦した黒田官兵衛は、付け城を築いて兵站を断つ持久戦をとり、他の国人勢力を各個撃破していきました。池永城の池永重晴、宇留津城の加来与次郎、長岩城の野中鎮兼、山田城の山田輝家、犬丸城の犬丸清俊らを討ち取りました。このような状況で、城井鎮房は13歳になる娘・鶴姫を人質とする事を条件として和議を申し入れ、恭順を誓いました。しかし、黒田長政は、将来的な禍根を一機に絶つ決心をしました。1588年5月15日、城井鎮房は黒田長政の招かれて中津城へ向かいました。黒田官兵衛が授けた謀略によって、合元寺に家臣団は留め置かれ、わずかな共の者と城に入った城井鎮房は酒宴の席で謀殺されました。同行していた小姓・松田小吉は京町筋で討死、合元寺に留め置かれた家臣団は黒田勢との斬り合いの末に全員が討ち取られました。城井鎮房の父・長房は、城井谷城に攻め寄せた黒田勢に殺害されました。嫡男・朝房は、「肥後国人一揆」鎮圧のために黒田官兵衛と同行して出陣中でしたが、肥後国木の葉で暗殺されました。鶴姫は黒田長政によって13人の侍女と共に、山国川の畔、広津の千本松河原で磔にされて殺害されました。「関ヶ原の戦い」では、城井旧臣が西軍の大友義統に味方して再起を図りましたが、「石垣原の戦い」でまたも黒田官兵衛に敗れました。しかし、懐妊していた城井朝房の妻・竜子が英彦山に落ち延び、その遺子・朝末が宇都宮姓に復してお家再興を運動しましたが、かないませんでした。宇都宮朝末の子・春房も、旧臣の援助を受けて江戸幕府幕臣への取り立てを運動しました。1690年、宇都宮春房の子・信隆が越前・松平家に召抱えられて、子孫は藩士として存続しました。また、城井鎮房の弟・弥次郎が島津家臣となり、そこで子孫を残しました。

その次の次に、北関東戊辰戦争:第二次宇都宮城の戦いです。「安塚の戦い」後、有馬藤太、大山巌、野津道貫が率いる東山道総督府救援軍が壬生城に入り、新政府軍は宇都宮城奪還戦を決定しました。有馬・大山・野津が率いる先鋒が宇都宮城へ向けて進軍しました。午前9時、宇都宮滝谷(滝尾神社)に迫った新政府軍大山隊は、滝尾神社を守備する旧幕府軍に砲弾を浴びせて退散させました。勢いに乗った新政府軍は六道口および新町でも旧幕府軍を火器によって敗走させ、次々と宇都宮城の西側へと攻め寄せましたが、逆に西の丸に陣を敷いていた城守備隊の「伝習隊」の猛烈な反撃に遭い、滝尾神社付近まで押し戻されました。その最中、薩摩藩兵隊長の井上猪右衛門が戦死、軍幹部の野津道貫や有馬藤太が負傷しました。大鳥圭介は後方にも軍を廻して新政府軍を包囲、後方の輜重隊から糧秣や弾薬を奪うと共に兵を撹乱しました。午後3時前、伊地知正治が率いる新政府救援軍は「岩井の戦い」を収めて結城から急行し、城南側から宇都宮城に攻め寄せました。また、壬生城を後発した土佐藩兵も合流し、激しい戦いとなりました。この戦闘で松が峰門を守備していた土方歳三が足に銃弾を受けて負傷、戦線を離脱しました。また、新政府軍の砲兵隊が城西側の延命院および桂林寺に山砲を並べ、二荒山神社や宇都宮城を砲撃しました。旧幕府軍は結局、多くの犠牲を出して八幡山方面から日光山に向けて退却しました。会津藩士で「伝習隊」参謀・柿沢勇記が戦死しました。宇都宮城を奪還した伊地知正治、大山巌らは宇都宮城内の藩校「修道館」や家老屋敷を本営として宿営し、城は宇都宮藩家老・戸田三左衛門に引き渡され、藩主・戸田忠友が帰還しました。宇都宮城攻城戦の終結後、新政府軍と旧幕府軍間の攻防の舞台は日光に移ります。旧幕府軍は徳川家の聖地である日光廟を背景に、日光山に陣を張りました。新政府軍は宇都宮城を会津戦線の拠点として確保、宇都宮藩もその一部隊として下野国内から会津方面まで転戦する事となります。さらに、東山道軍参謀を勤める土佐藩士・板垣退助が率いる新たな救援軍が出発しました。

そのまた次に、戊辰戦争:水戸藩家老・鈴木重棟斬首です。水戸藩家老・鈴木石見守重棟は、鈴木重好を祖とする代々「従五位下」に叙されて「石見守」を名乗り、水戸藩の家老・城代を務めた名家でした。門閥派「諸生党」の中で最も禄高が高く、名目上「諸生党」の領袖とされました。1859年、父・重矩の隠居により家督を相続しました。1860年に家老、城代となり、「従五位下」に叙されて「石見守」を称しました。1864年、水戸藩内の尊王攘夷派の激派により「天狗党の乱」が起こりました。門閥派である「諸生党」は幕府の後援を得て鎮圧にあたり、市川三左衛門らとともに藩政の実権を掌握しました。しかし、1868年「明治維新」により「諸生党」と尊攘派「天狗党」の立場は逆転しました。「天狗党」の生き残りが水戸入りする前に水戸を脱出し、「諸生党」の主要勢とは別れて江戸に潜伏しましたが捕えられました。5月15日、首を切られて市中お引き回しの上、獄門に晒されました。享年30でした。幼少の二人の息子(8歳の長男・銛太郎、次男・甚次郎)も斬罪となりました。隠居していた父・重矩も捕えられて獄死しました。また、町奉行・小笠原五兵衛は天誅に会い、妻もその場で殉死しました。郡奉行・大田伝蔵も暗殺されました。額賀与次衛門は襲われたと知ると切腹しました。

そのまた次の次に、五・一五事件です。「世界大恐慌」に端を発した大不況、企業倒産が相次いで社会不安が増していました。さらに、関東軍の一部が「満州事変」を引き起こしました。犬養毅は金輸出再禁止などの不況対策を行う事を公約に総選挙で大勝をおさめましたが、「満州事変」を黙認したため陸軍との関係が悪くなりました。「ロンドン海軍軍縮条約」を締結した前総理・若槻禮次郎に対して不満を持っていた海軍将校は、若槻禮次郎襲撃の機会を狙っていました。計画の中心人物だった藤井斉が「後を頼む」と遺言を残して「第一次上海事変」に出兵して戦死しました。この遺言を知った仲間が事件を起こす事になります。この事件の計画立案・現場指揮をしたのは藤井斉の同志、海軍中尉・古賀清志でした。事件は「血盟団事件」につづく「昭和維新」の第二弾として決行されました。古賀清志は「昭和維新」を唱える海軍青年将校たちを取りまとめ、大川周明らから資金と拳銃を引き出させました。農本主義者・橘孝三郎を口説いて、主宰する愛郷塾の塾生たちを農民決死隊として組織させました。時期尚早と言う陸軍側の予備役少尉・西田税を説得し、後藤映範ら11名の陸軍士官候補生を引き込みました。古賀清志と中村義雄海軍中尉は、土浦の山水閣で計画を策定しました。5月15日は日曜日で、犬養毅は終日官邸にいました。第一組9人は三上卓海軍中尉以下5人を表門組、山岸宏海軍中尉以下4人を裏門組として、2台の車に分乗して首相官邸に向かいました。午後5時27分頃、官邸に侵入して警備の警察官を銃撃し、重傷を負わせました(1名が後に死亡)。三上卓は食堂で犬養毅を発見すると、ただちに拳銃を犬養毅に向けて引き金を引きましたが、たまたま弾が入っていなかったため、発射されずに犬養毅に制止されました。そして、犬養毅自らに応接室へ案内され、そこで犬養毅の考えやこれからの日本の在り方などを聞かされていました。その後、裏から突入した黒岩隊が応接室を探し当てて黒岩勇が犬養毅の腹部を銃撃、次いで三上卓が頭部を銃撃して犬養毅に重傷を負わせました。襲撃者達は、すぐに去りました。それでも犬養毅は、すぐに駆け付けた女中のテルに「今の若い者をもう一度呼んで来い、よく話して聞かせる」と強い口調で語りましたが、次第に衰弱して深夜になって死亡しました。首相官邸以外にも、内大臣官邸、立憲政友会本部、警視庁、変電所、三菱銀行などが襲撃されましたが、被害は軽微でした。第一組・第二組・第三組の計18人は午後6時10分までに、それぞれ麹町の東京憲兵隊本部に駆け込んで自首しました。一方、警察では1万人を動員して徹夜で東京の警戒にあたりました。当時の政党政治の腐敗に対する反感から犯人の将校たちに対する助命嘆願運動が巻き起こり、将校たちへの判決は軽いものとなりました。この事が「二・二六事件」の陸軍将校の反乱を後押ししたと言われています。その一方で、大川周明ら民間人に対する刑は非常に重いものでした。これは、「二・二六事件」で民間人の北一輝や西田税が死刑となった事と共通します。
以下が「五・一五事件」の実行者と刑です。
首相官邸襲撃隊:海軍中尉、三上卓(禁錮15年、後に三無事件に関与)、山岸宏(禁固10年)、海軍少尉、村山格之(禁固10年)、黒岩勇(禁錮13年)、陸軍士官学校本科生、野村三郎(禁固4年)、後藤映範(禁固4年)、篠原市之助(禁固4年)、石関栄(禁固4年)、八木春男(禁固4年)
内大臣官邸襲撃隊:海軍中尉、古賀清志(禁錮15年)、海軍少尉、杉田善一郎(禁固10年)、陸軍士官学校本科生、坂元兼一(禁固4年)、菅勤(禁固4年)、西川武敏(禁固4年)、池松武志(禁固4年)
立憲政友会本部襲撃隊:海軍中尉、中村義雄(禁固10年)、陸軍士官学校本科生、中島忠秋(禁固4年)、金清豊(禁固4年)、吉原政巳(禁固4年)
民間人:「愛郷塾」主宰、橘孝三郎(無期懲役)、思想家、大川周明(禁錮5年)、「柴山塾」主宰、本間憲一郎(禁固4年)、玄洋社社員、頭山秀三(頭山満の三男)
反乱予備罪:海軍中尉、林正義海軍少尉(禁固2年、執行猶予5年)、伊東亀城(禁固2年、執行猶予5年)、大庭春雄(禁固2年、執行猶予5年)、海軍大尉、塚野道雄(禁固1年、執行猶予2年)

さらに次に、沖縄返還です。「第二次世界大戦」の講和条約で、1951年に署名された日本国との平和条約「サンフランシスコ講和条約」で、アメリカ合衆国の施政権下に置かれるものとされました。アメリカ軍は各地に半ば力ずくで基地や施設を建設しました。アメリカ軍兵士による悪質な事故、殺人を含む事件が頻発し、県民の死傷者も相次ぎました。そして沖縄県民はアメリカの施政に落胆して「本土復帰」を訴え、「島ぐるみ闘争」といった抵抗運動を起こしました。1960年には「沖縄県祖国復帰協議会(復帰協)」を結成しました。1970年にはコザ市で、アメリカ軍兵士が連続して起こした2件の交通事故を契機に「コザ暴動」が発生し、これ以上「沖縄県」をアメリカ軍政下に置く事は適当でないと内外に知らしめました。内閣総理大臣・佐藤栄作はニクソン大統領との取り決めで、「非核三原則」の拡大解釈や日本国内へのアメリカ軍の各種核兵器の一時的な国内への持ち込みに関する秘密協定など、冷戦下で東側諸国との対峙を続けるアメリカの要求を尊重しました。日本への返還に際し、日本政府は返還協定第7条にもとづき「特別支出金」として総額3億2000万ドルをアメリカ政府に支払いました。「特別支出金」の内訳には、琉球水道公社や琉球電力公社、琉球開発金融公社のほか、那覇空港施設や琉球政府庁舎あるいは航空保安施設、航路標識などのアメリカ軍政下で設置された民生用資産の引き継ぎの代金1億7500万ドルが含まれていました。日本政府は取り決めに従い、この対価を支払いました。この事で「西山事件」が起こる事になります。しかし、こうして沖縄は日本に返還されました。

最後に、セブンイレブン日本1号店が開店です。発祥の地は米国のテキサス州オーク・クリフです。アメリカ南部の氷の小売店から始まりました。名称は当初、朝7:00から夜11:00まで営業していた事が由来です。東京都江東区に第1号店「豊洲店」を出店し、最初に売れた商品はサングラスでした。開業当時から2010年までのスローガンは「セブン-イレブン いい気分!」で、以前は「セブン-イレブン いい気分!」の後に「あいててよかった」と続いていましたが、1990年代には「あいててよかった」の一言が消滅しました。1980年代になって米国セブンイレブンは経営不振に陥り、1991年に経営破綻した事でイトーヨーカ堂に買収されました。2005年、イトーヨーカ堂、セブン-イレブン・ジャパン、デニーズジャパンの3社で持株会社「セブン&アイ・ホールディングス」を株式移転により設立して経営統合を行いました。全国14,562店舗という日本で最大の店舗数を持ち、販促施策の一環として各メーカーと協力して「セブン-イレブン限定商品」の販売や、新製品の先行販売を行っています。独自サービス:セブン銀行、セブンネットショッピング、セブンドリーム・ドットコム、セブンミール(食事配達サービス)、セブンスポット、コピー機(コンビニ業界で初導入)、ネットプリント(インターネット経由で登録した文書ファイルやメディア(CD−ROMやUSB)によるファイルプリントが可能)、住民票の写し・印鑑登録証明書の発行(住基カードを利用して住民票の写しと印鑑登録証明書の取得が可能)、チケットのプレイガイド機能(エンタテインメントプラス (e+)、並びに「チケットぴあ」との提携で各種イベントのチケットオンライン購入可能)、コンビニATM(他のコンビニチェーンがATM管理受託会社によりATMを運営しているのに対し、セブンイレブンは新たに銀行子会社・セブン銀行を設立し、その出張所という形でATMを設置しています。電子マネー「nanaco」へのチャージなど連携サービスも行っています。)

今日の誕生日:ピエール・キュリー、瀬戸内寂聴、伊丹十三、美輪明宏、美川憲一、上田清司、江夏豊、長谷直美、大森うたえもん、辰吉丈一郎、武井宏之、西島洋介、山口五和、井上康生、藤原竜也、南明奈、サニー(少女時代)

今日の記念日:国際家族デー、沖縄本土復帰記念日、葵祭、ヨーグルトの日、ストッキングの日、Jリーグの日、水分補給の日、青春七五三

今日の「今日訓」:本日は、「石清水祭」、「春日祭」と共に「日本三勅祭」の一つで「祇園祭」、「時代祭」と共に「京都三大祭り」の一つとなっている「葵祭」です。1993年9月の国連総会で制定された「国際家族デー」、1940年にアメリカのデュポン社がナイロン製ストッキングを全米で発売した事で「ストッキングの日」、1972年5月15日午前0時に「太平洋戦争」後、アメリカに信託統治されていた沖縄が日本に返還された事で「沖縄本土復帰記念日/沖縄復帰記念日」、ヨーグルトに含まれるブルガリア菌が不老防止に役立つという事を世界に発表した、ロシアのイリヤ・メチニコフの誕生日で「ヨーグルトの日」、1993年に「日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)」が開幕した事で「Jリーグの日」、高温の環境での水分補給に最適な温度が5度〜15度である事から「水分補給の日」、「七五三」から10年後で13歳、15歳、17歳の青春真っ盛りの少年少女に、これからの人生に対して励ましのエールを送ろうという日で、11月15日の「七五三」から半年ずらして「青春七五三」となりました。
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