http://9001.teacup.com/sfk/bbs/15725 (写真入り記事)
私の最高の時間は、夜寝る前です。
こんなゴマちゃんのような枕に頭を置いて、横たわりながら、ゆっくりした時間を過ごしたいな。
ここのところ、ずっと毎日緊張状態で、帰宅し、仕事を終えると完全燃焼してしまうので、1分もしないうちに寝入ってしまいます。
スマホのバッテリーの残りが5%になり、目覚ましアラームが鳴るまでバッテリーを持たせようとしばらく充電しようとすると、気がついたら朝です。
充電したまま寝ると、過充電になり、寿命が縮むので避けたいと思っていても、完全燃焼した日は、あっと言う間に眠りについてしまいます。
今日は、夜11時頃からリラックスしながら、ゆっくり、ぼーっと過ごしています。とても幸せです。
至福の時間を楽しめばいいのに、なぜか「ちょっと一プク〈服・福〉」を書きたくなってしまいました。
人は、夜一人になり、ベッドの上で本当の姿を現せるのではないかと思います。
私は、できる限りありのままの姿で生きたいと思っています。
しかし、牧師として、あるいは、社会人として、「こうあるべき!」「こうあってほしい!」と期待されていることを感じると、ついサービスしたくなります。
今日、牧師の河野先生と二人で語り合う中で、「牧会塾」についての話をしました。先生は、一度、牧師の働きに疲れて燃え尽きてしまいそうになったそうです。
牧会塾に通うようになって、元気を回復されたそうです。
以前私も、牧会塾に通いたいと思ったことがありました。しかし、先に参加しているある先生から、「牧会塾に通うようになると、参加する牧師の顔が段々暗くなっていくんですよね。それがいいんですねー!」と聞き、「そんな暗くなるような塾には行きたくない!」と思ったものです。
しかし今わかるのは、牧師は、何重もの鎧兜を着て、自分じゃない自分を演じてしまうことがあります。牧師は、神の人として、明るく、完全で、優しい、イエス様の姿を期待されるからです。
その暗くなっていく牧会塾は、最初、みんな外行きの顔で参加するのでしょう。しかし、「無理に笑ったり、無理に期待される牧師像を演じなくてもいい!」とわかると、自然体になり、ありのままの顔で参加するので、結果として暗い顔になっていったのでしょう。
思い返してみると、自然体じゃなくて、無理に元気に振舞っている人と一緒にいると、何か疲れてしまいます。しかし、自然体の人と一緒にいると、こちらも自然体でいやすくなり、楽です。
聖書は、自分のがんばりで無理をするのではなく、キリストとともに自分に死に、キリストのいのちで生かされ、生きていくことを奨めます。
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ書2章20節)
私がいくらがんばっても、神にはなれません。キリストになれません。
自分が神になろうとするのではなく、キリストとともに自分に死に、お任せし、キリストのいのちに生かされ、キリストとともに生きていくなら、本当の自分らしさを取り戻し、キリストの姿に似せられていくに違いありません。
「栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(第二コリント3章18節)
まだ起きている人は、リラックスして、ゆっくり、ぼーっと過ごしてください。それが言いたくて、「ちょっと一プク〈服・福〉」を書きました。
おやすみなさいヽ(´―`)ノ
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