mixiユーザー(id:48382454)

2015年05月14日00:08

58 view

5月14日の日記

今日の出来事:221年−劉備が皇帝に即位し蜀(蜀漢)が成立、1019年−刀伊の入寇、1868年−北関東戊辰戦争:壬生安塚の戦い、1878年−紀尾井坂の変:内務卿・大久保利通が暗殺、1940年−第二次世界大戦:ナチス・ドイツ軍がロッテルダムを爆撃し、オランダが降伏、1945年−名古屋空襲で名古屋城が焼失、1991年−信楽高原鐵道列車衝突事故(死者42名、負傷者614名)

今日は、劉備が皇帝に即位し蜀(蜀漢)が成立です。蜀(蜀漢)は、三国時代の3国の一つです。劉備(字・玄徳)は、関羽や張飛と苦闘をしながら諸葛亮と出会いました。その後は孫権と同盟を結んで「赤壁の戦い」で曹操を破り、孫権とともに荊州を攻め、荊州の4郡を制圧して支配下に収めました。その後、劉璋の配下の張松・法正らの手引きで劉璋から領土を奪い、益州の大半を奪いました(入蜀)。孫権に荊州南部を割譲し、漢中を守備している夏侯淵を「定軍山の戦い」で討ち、曹操から漢中を奪って「漢中王」となりました。しかし、関羽は荊州方面から曹操領に侵攻しましたが、曹操と密かに同盟を結んだ孫権に荊州を攻撃されました。荊州は失陥し、関羽は捕虜となり孫権に処刑されました。曹丕が後漢を廃して「魏」の皇帝となると、劉備は対抗して「蜀」の皇帝となりました。それから荊州奪還と関羽の仇討ちのため「呉」を攻めましたが「夷陵の戦い」で大敗し、劉備は孫権と和睦を結びました。そして、劉備は諸葛亮に後事を託して死去します。

次は、刀伊の入寇です。刀伊とは、高麗語で高麗以東の夷狄、「東夷」に日本文字をあてたものです。刀伊の入寇は「遼」配下の満洲を中心に分布した女真族(満洲民族)と見られる海賊船団が壱岐・対馬を襲い、更に筑前に侵攻した事件です。「刀伊」は賊船約50隻(約3000人)の船団を組んで突如として対馬に来襲し、島の各地で殺人や放火を繰り返しました。国司の対馬守遠晴は島からの脱出に成功し、大宰府に逃れました。賊徒は続いて壱岐を襲撃し、老人・子供を殺害すると壮年の男女を船にさらい、人家を焼いて牛馬家畜を食い荒らしました。賊徒来襲の急報を聞いた国司の壱岐守・藤原理忠は、ただちに147人の兵を率いて賊徒の征伐に向かいましたが、3000人という大集団には敵わず、玉砕してしまいました。藤原理忠の軍を打ち破った賊徒は、次に壱岐嶋分寺を焼こうとしました。これに対して嶋分寺側は、常覚(島内の寺の総括責任者)の指揮の元、僧侶や地元住民たちが抵抗して応戦しました。そして賊徒を3度まで撃退しましたが、その後も続いた賊徒の猛攻に耐えきれずに常覚は1人で島を脱出し、事の次第を大宰府に報告へ向かいました。その後、寺に残った僧侶たちは全滅してしまい、嶋分寺は陥落しました。その後、「刀伊」は筑前国に襲来し、博多周辺まで侵入しました。そして、周辺地域を荒らし回りました。大宰権帥・藤原隆家は九州の豪族や武士を率いて「刀伊」を撃退しました。こうして、藤原隆家は「刀伊の侵攻」から日本を守り抜きました。

その次に、北関東戊辰戦争:壬生安塚の戦いです。「岩井の戦い」で敗れた「純義隊」、「誠忠隊」、「回天隊」の残兵は、宇都宮城の旧幕府軍と合流しました。旧幕府軍は、江戸を後発して既に壬生周辺に進軍して来ていた永倉新八ら「新選組」や郡上藩兵および「衝鋒隊」、そして下野国に侵入していた秋月登之助が率いる会津藩兵と連携して壬生城攻略を企てました。そして、秋月登之助が率いる旧幕府軍が宇都宮城を出立し、新政府軍の安塚陣地に総攻撃をかけました。連戦連勝の旧幕府軍の勢いは猛烈で新政府軍は敗退し、安塚を占拠しました。一方、壬生城には鳥取藩士・河田景与が率いる新政府救援軍が入城しており、安塚敗北の報を受けて壬生城から討って出た河田景与自らが率いる鳥取藩兵の反撃に遭って、姿川対岸に撤退しました。さらに伊地知正治が率いる救援第二軍が壬生城に接近している報を受け、旧幕府軍は止む無く宇都宮城へ撤退しました。

その次の次に、紀尾井坂の変です。内務卿・大久保利通が東京麹町紀尾井町清水谷(紀尾井坂)で不平士族6名によって暗殺された事件です。実行犯は石川県士族の島田一郎、長連豪、杉本乙菊、脇田巧一、杉村文一と島根県士族の浅井寿篤の6名でした。中心的存在となったのが島田一郎でした。島田一郎は加賀藩の足軽として「第一次長州征伐」や「戊辰戦争」に参加しました。「不平士族の反乱」の時、島田一郎も金沢で挙兵を計画しましたが、失敗しました。この後、島田一郎らは高官暗殺に方針を変更しました。午前8時頃、大久保利通は麹町区霞ヶ関の自邸を出発し、明治天皇に謁見するために二頭立ての馬車で赤坂仮皇居へ向かいました。午前8時30分頃、紀尾井町清水谷(紀尾井坂付近)で暗殺犯6名が大久保利通の乗る馬車を襲撃しました。日本刀で馬の足を切った後、御者の中村太郎を刺殺しました。次いで、乗車していた大久保利通を馬車から引きずり降ろそうとしました。大久保利通は島田一郎らに「無礼者!」と一喝しましたが、斬殺されました。島田一郎らは刀を捨てて大久保利通の罪五事と、他の政府要人(木戸孝允、岩倉具視、大隈重信、伊藤博文、黒田清隆、川路利良)の罪を挙げた斬奸状を手に自首しました。15日に大久保利通に正二位右大臣が追贈され、大久保利通および御者の中村太郎の慰霊式が行われました。17日に両者の葬儀が行われ、大久保利通の葬儀は、大久保邸に会する者1200名近く、費用は4500円余りという近代日本史上最初の国葬級葬儀となりました。政府は暗殺犯を「国事犯」として処理し、臨時裁判所を開設して裁判を行って6名は即日、斬罪となりました。この事件を機に政府高官の移動の際は、数人の近衛兵らによる護衛が付くようになりました。

そのまた次に、第二次世界大戦:ナチス・ドイツ軍がロッテルダムを爆撃し、オランダが降伏です。ナチス・ドイツ軍によるロッテルダムへの爆撃後に、同様の惨劇が他の都市に及ばないようにと、オランダ軍が降伏と言う選択を行ないました。その結果、ナチス・ドイツが勝利し、オランダを占領しました。オランダ政府はイギリスに亡命し、亡命政府を作りました。しかし、オランダが再び自由を得るまでには、5年の歳月と25万のオランダ人の犠牲が必要となるのでした。

最後に、第二次世界大戦:名古屋空襲で名古屋城が焼失です。1945年5月14日未明、524機の「Bー29」がマリアナ諸島から出撃しました。「Bー29」は御前崎、波切、潮岬南方の洋上より伊勢湾、志摩半島を北上して三重、奈良、滋賀、岐阜を経て名古屋に侵入しました。早朝6時23分に警戒警報が発令、7時50分に空襲警報が発令されました。先頭機が目標上空に達したのは8時5分でした。9時25分までに焼夷弾2515トンを投下しました。そして、焼夷弾は名古屋城にも投下され、大天守、小天守、本丸御殿、東北隅櫓、正門、本丸の枡形門、金鯱が直撃を受けて炎上焼失しました。戦後、三之丸を除く城跡は、北東にあった低湿地跡と併せて「名城公園」とされました。園内には、戦災を免れた3棟の櫓と3棟の門、二之丸庭園の一部が保存されました。土塁・堀・門の桝形などは、三之丸を含めて比較的よく残されています。天守は、地元商店街の尽力や全国からの寄付によって1959年に再建され、復元された金鯱とともに名古屋市のシンボルとなりました。天守に続いて本丸御殿の復元が計画され、2018年の全体公開を目指して総工費150億円が投じられて復元されています。第十三方面軍司令官兼東海軍管区司令官を務めていた岡田資は、「名古屋空襲」の際に撃墜されて捕虜となった米軍の「B−29」爆撃機搭乗員27名を自らの命令で処刑しました(11名は軍律会議で死刑判決、処刑は6月28日、残り16名は捕虜)戦後、国際法違反(捕虜虐待罪)に問われ、B級戦犯として連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に逮捕され、軍事裁判(横浜法廷)に掛けられました。戦犯裁判での岡田資は、米軍による空襲について「一般市民を無慈悲に殺傷しようとした無差別爆撃である」、「搭乗員はハーグ条約違反の戦犯であり、捕虜ではない」と徹底的に主張し、検察や米軍関係者による爆撃の正当化を批判、捕虜虐待の罪に付いても全面的に争いました。一方、「私ひとりが一切の責任を負う」として、捕虜処刑に関わった部下を庇い、自ら責任を負う発言を繰り返しました。この様な岡田資の高潔な姿勢は、米軍検察側や裁判官の心をも動かし、最終的には米軍側が「名古屋空襲は無差別爆撃であり国際法違法である」との見解を導き出すに至りました。1949年9月17日、巣鴨プリズンにて絞首刑が執行されました。処刑に当たり、裁判を担当した検事・弁護人を初め、国内でも秩父宮から助命嘆願や減刑の要望書が出されたり、GHQ側の法務担当官から「終身刑が相当である」、「絞首刑ではなく銃殺刑とするべし」との意見も出されましたが、絞首刑による死刑が執行されました。

今日の誕生日:松平頼徳、斎藤茂吉、佐原健二、ジョージ・ルーカス、大間ジロー(元オフコース)、古尾谷雅人、佐戸井けん太、ケイト・ブランシェット、日村勇紀(バナナマン)、豊田綾乃、野久保直樹、吉野紗香、柴田亜衣、マギー、オルフェーヴル

今日の記念日:種痘記念日、温度計の日、合板の日

今日の「今日訓」:本日は、水銀温度計を発明し、華氏温度目盛り(F)に名前を残すドイツの物理学者ファーレンハイトの、1686年の誕生日から「温度計の日」、中国でファーレンハイトに「華倫海」の字を当てた事から「華氏」と呼ばれるようになりました。1796年、イギリスの外科医エドワード・ジェンナーが初めて種痘の接種に成功した事で「種痘記念日」、日本における合板の創始者・浅野吉次郎の誕生日1859年(安政6年)5月14日から「合板の日」となりました。
0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する