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2015年05月13日16:03

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遺された被爆遺構〜被爆者との会話

身近な所から太平洋戦争を知る・体験する仔グマ流「大東亜戦争ダークツーリズム長崎原爆編」

今年は戦後70年。
長崎原爆投下から70年です。

GWに長崎原爆爆心地を巡りましたので、ご紹介致します。


●城山国民学校(現:城山小学校)爆心地から西に約800m


1923年、九州でも唯一の鉄筋コンクリート3階建ての校舎として創立された大変モダンな建物でした。
1941年4月、国民学校令で「城山国民学校」と改称しましたが、この頃の児童数は約2000人で、マンモス校でした。
原爆投下の日、学校内および運動場付近には教職員32人、三菱兵器製鉄所の所員や動員学徒ら合わせて158人がいましたが、生存者は20人(そのうち横穴式防空壕内に11人)という惨劇でした。
また、校庭で作業をしていた17人の教職員は全員死亡しました。
当日は夏休み中で児童は登校しておらず動員先や自宅などで被爆し、児童数推定1500人のうち児童約1,400名(全校生徒の八割)が学校または家庭で爆死したと推定されます。
生き残ったのはわずか5人の職員と100人たらずの児童でした。

校舎は秒速250メートルという猛烈な爆風を受け、開校時からの校舎は東側が3階から崩壊し炎上、新校舎も屋根に大穴が開きその後炎上するなど甚大な被害を受けました。
戦後は改修工事を施され、外地からの帰国者専用住宅を経て再び校舎として用いられたが、開校時の校舎は1980年(昭和55年)に、新校舎も1984年(昭和59年)までに後述の階段棟を除き解体されました。

現存する被爆当時の校舎は、1937年(昭和12年)に完成した新校舎の丸窓が特徴的な階段棟である(延べ床面積474平方平方メートル)。
1984年(昭和59年)に現在の校舎が増築される際に、慰霊会や育友会の働きかけにより保存されました。
1999年(平成11年)2月には「城山小平和祈念館」として改装され、校舎内には当時の状況を伝える資料などが展示されております。

長崎市が定める「爆建造物等の取扱基準」ではもっとも重要であるAランクが付けられており、2013年1月には長崎県が他の被爆遺構と共に国の登録記念物への登録を求める意見具申書を提出しました。

校舎敷地内には平和に関する施設や祈念碑等が数多くあり、観光客や修学旅行生が訪れております。
しかし、校舎敷地内の見学には事前申請が必要であり、長崎市立城山小学校の公式ウェブサイトに申込の詳細が掲載されています。

僕が訪れた日は平日の日中でしたので特に申請は要らなかったのですが、行き交う生徒さん一人一人がご挨拶をしてくれるので、僕も不審者と間違われないように何十人に挨拶仕返して少し面倒くさかったかも・・・。

保存されている被爆遺構は現在、城山小平和祈念館として公開されていまして、見学無料、開館時間は08:30〜16:30、土曜は12:30迄となっています。
また、学校敷地内なのでトイレはなるべく外で済ませたほうが宜しいかと思います。

ちなみに祈念館には案内人がおりまして、被爆した校舎等について説明して頂けます。
僕が訪れた時の案内人の方とは少しお話しする事ができました。
その方は4歳の時に被爆されたとの事で、僕自身、被爆者と接すのは実は初めてだったんですが、優しい語りで説明して下さったのが印象的でした。




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