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2015年05月13日01:47

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5月13日の日記

今日の出来事:1204年−三日平氏の乱、1397年−金閣寺の上棟式、1612年−巌流島の決闘、1784年−田沼意知暗殺事件、1970年−瀬戸内シージャック事件で警察が旅客船乗っ取り犯を射殺、1972年−大阪・千日デパート火災、死者118名・重軽傷者78名

今日は、三日平氏の乱です。三日平氏の乱は、鎌倉時代に伊勢国と伊賀国で平家の残党が蜂起した事件です。1204年1月に伊勢平氏の若菜盛高らが蜂起し、討伐に向かった鎌倉幕府軍の平賀朝雅が3日間で反乱軍を鎮圧した事から「三日平氏の乱」と称されました。鎌倉幕府は、初代将軍・源頼朝の死後に内紛が続きました。1200年に「梶原景時の変」を受けて京で「建仁の乱」が起こるなど、その影響は都にも及びました。1203年の「比企能員の変」と2代将軍源頼家の追放によって12歳の3代将軍・源実朝が擁立され、北条時政が実権を握った幕府は娘婿・平賀朝雅を京都守護として京に派遣しました。平賀朝雅は、西国に領地を持つ武蔵国の御家人を率いて上洛しました。一方、伊勢・伊賀地域は「治承・寿永の乱(源平合戦)」で滅亡した平家の本拠地で、1184年の「源平合戦:三日平氏の乱」で平家残党の蜂起が鎮圧された後も根絶された訳ではなく、隠然たる勢力がありました。平家残党は20年の雌伏を経て、将軍後継問題で揺れる幕府の動揺に乗じて1204年1月、若菜五郎盛高(「源平合戦:三日平氏の乱」を起こした藤原忠清の次男・平忠光の子)が軍勢を率いて伊勢国の守護・山内首藤経俊の舘を襲撃し、再び反乱の兵を挙げました。山内首藤経俊は、この襲撃事件を平氏反乱の兆しとは気付かず、1月28日に侍所別当・和田義盛が幕府に事件の張本を伊勢国員弁郡の郡司・進士行綱と報告し、召し捕りました。しかし、伊賀で平維基(維盛の子)の子孫らが、伊勢で平度光(忠光の子)の子息らが蜂起しました。両国の守護の山内首藤経俊が赴きましたが、問答無用で襲撃されて逃亡しました。伊勢・伊賀は制圧され、反乱軍は鈴鹿関や八峰山(現・根の平峠)を通る道路を固めました。この報告を受けた幕府は、1204年4月11日に京都守護・平賀朝雅に京畿の御家人達を率いて伊勢・伊賀両国へ出陣する事を命じました。京都では4月22日に後鳥羽院の御所で議定があり、伊賀国を平賀朝雅の知行国と定め、追討の便宜を図りました。翌23日、平賀朝雅は軍勢200騎を率いて出陣しました。反旗は伊賀国に翻りましたが、反乱の中心地は伊勢北部の朝明郡、三重郡、鈴鹿郡、安濃郡、河曲郡の諸国および中心の多気郡でした。追討軍は4月24日、都を出て征途に上りました。反乱軍が鈴鹿関を塞いでいたため、近江国からは入らずに美濃国を経由し、28日に伊勢国に入りました。5月11日から合戦となり、まずは富田基度が拠る朝明郡の富田舘を襲い、数時間の合戦後に富田基度・松本盛光兄弟、安濃郡の岡八郎貞重とその子息・親族等を撃破しました。さらに、多気郡に進むと庄田三郎佐房とその子・師房と戦い、六箇山の平盛時を破りました。そして、関の小野(亀山市)に拠る張本・若菜五郎を破りました。5月13日に反乱は3日間で鎮圧され、伊賀国の残党も追討されました。幕府では、論功行賞が行われました。山内首藤経俊は伊賀・伊勢の守護を剥奪され、平賀朝雅が兼務する事となりました。平賀朝雅は北面武士として後鳥羽院の殿上人に加えられ、京都守護、伊勢守護、伊賀知行国主となって御家人としては異例の権勢を強めました。翌年の1205年、平賀朝雅と畠山重保との口論に端を発した「牧氏事件」が起こります。舅・北条時政が幕府を追放され、平賀朝雅は実権を握った北条時政の子・義時の命で派遣された山内首藤通基(経俊の子)に殺害されます。平賀朝雅の死を受けて山内首藤経俊は職の回復を幕府に願いましたが、許されませんでした。加藤光員も恩賞を受け、西面武士として検非違使に任ぜられて「大夫判官」と称しました。加藤光員は、1221年の「承久の乱」で京方に属したため、所領の伊豆国狩野牧は没収されて弟・景廉に与えられる事になります。

次に、金閣寺の上棟式です。金閣寺とは「鹿苑寺」の通称で、鹿苑とは足利義満の院号「鹿苑院」です。足利義満の北山山荘を死後に寺としたもので、室町時代前期の「北山文化」を代表する建築物です。本尊は「観音菩薩」、宗派は臨済宗相国寺派、開山は夢窓疎石です。元々この地は、鎌倉時代に藤原公経(西園寺公経)が西園寺を建立して、山荘「北山第」を営んでいました。鎌倉幕府滅亡直後に当主・西園寺公宗が、後醍醐天皇を西園寺に招待して暗殺しようと企てたという容疑がかけられて処刑されてしまい、西園寺家の膨大な所領と資産は没収されてしまいました。これを足利義満が河内国の領地と交換に西園寺を譲り受け、改築と新築によって一新しました。この邸宅が「金閣」です。この義満の北山山荘は当時「北山殿」、または「北山第」と呼ばれ、邸宅でしたがその規模は御所に匹敵し、政治中枢の全てが集約されました。この時、足利義満は征夷大将軍を子の義持に譲っていましたが、実権は手放さずに「北山殿」にあって政務を行いました。1994年、「鹿苑寺」は世界文化遺産「古都京都の文化財」の一つとして登録されました。

その次に、巌流島の決闘です。巌流島の決闘とは、宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘です。巌流島は山口県下関市にある、関門海峡に浮かぶ無人島で正式な名称は「船島」です。決闘は宮本武蔵がわざと遅刻して、佐々木小次郎が怒って冷静さを失っている所をつかれて、やられてしまったと言われています。佐々木小次郎が、「さっさと行くぞ」と言って刀の鞘を投げ捨てると、それを指して宮本武蔵が「小次郎敗れたり」と言い「勝負のあと刀を納めるべき鞘を捨ててしまったのは、もうそれに納められないということだ」と指摘して、更に佐々木小次郎の動揺を誘ったと言います。決闘は、佐々木小次郎の「燕返し」をかわした宮本武蔵が、飛び上がって一撃を加えて勝利します。その後、この地は小次郎の号「巌流」をとり、「巌流島」と呼ばれるようになりました。

最後に、田沼意知暗殺事件です。老中・田沼意次の子で江戸幕府の若年寄・田沼意知が江戸城内にて旗本・佐野政言に襲撃されました。佐野政言は「覚えがあろう」と3度叫んでから、一竿子忠綱作の大脇差で襲撃しました。田沼意知は、8日後に死亡しました。佐野政言は切腹となり、佐野家は改易となりました。犯行の動機は田沼意知とその父・田沼意次が先祖粉飾のために佐野家の系図を借りて返さなかった事、上野国の佐野家の領地にある佐野大明神を田沼意知の家来が横領し、田沼大明神にした事、田沼家に賄賂を送ったが一向に昇進出来なかった事などが挙げられていますが、乱心とされました。

今日の誕生日:法然、マリア・テレジア、福地桜痴、笠智衆、由利徹、中村メイコ、円谷幸吉、山田パンダ(かぐや姫)、スティーヴィー・ワンダー、ボビー・バレンタイン、鈴木光司、小林まこと、太田光(爆笑問題)、小林雅之(JUN SKY WALKER(S))、矢間晶也(LLブラザーズ)、漆戸啓(カズン)、加藤晴彦、井上和香、野波麻帆、熊田曜子、DJケミカル(元FUNKY MONKEY BABYS)、黒川芽以、ローラ・チャン、岩田華怜(AKB48)、ダイワスカーレット、ジョワドヴィーヴル

今日の記念日:愛犬の日、カクテルの日、メイストームデー(5月の嵐の日)

今日の「今日訓」:本日は、メイストームデー(5月の嵐の日)です。これは「バレンタインデー」から88日目、「八十八夜の別れ霜」という言葉に因み、別れ話を切り出すのに最適とされる日です。アメリカの雑誌「バランス」1806年5月13日号にて「カクテル」という名称が生まれた事から「カクテルの日」、1949年に「ジャパンケンネルクラブ」の前身となった「全日本警備犬協会」が創立された事で「愛犬の日」となりました。
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