mixiユーザー(id:48382454)

2015年05月12日00:11

218 view

5月12日の日記

今日の出来事:1868年−北関東戊辰戦争:岩井の戦い、1872年−悌輔騒動、1898年−キュリー夫人がラジウムを発見、1925年−治安維持法が施行、1942年−第二次世界大戦:第二次ハリコフ攻防戦、2008年−四川大地震が発生、2011年−立川6億円強奪事件

今日は、北関東戊辰戦争:岩井の戦いです。宇都宮を救援するため、東山道軍参謀・薩摩藩士の伊地知正治が率いる救援第二軍(この中には薩摩藩・野津鎮雄、野津道貫、大山巌、長州藩・楢崎頼三らがいる)が編成され、出発しました。一方、鳥取藩士・河田景与、土佐藩士・祖父江可成が率いる救援第一軍は、古河にて宇都宮城の落城を知りました。その後、小山で宇都宮から敗走して来た香川敬三・有馬藤太らを収容しました。宇都宮落城の詳細と、大鳥圭介は次に壬生城を狙うだろうとの報告を受け、これをを救うために壬生城に入城しました。伊地知正治が率いる救援第二軍300名は、常陸岩井村に別の旧幕府軍が駐屯しているのを知り、これを攻撃するために岩井村に向かいました。この時、岩井村に駐屯していたのは「純義隊(隊長:小池周吾)」、「誠忠隊(隊長:山中孝司)」、「回天隊(隊長:藤沼幸之丞)」の1000名で、いずれも旗本により構成された旧幕府軍でした。大鳥軍が日光を目指したのに対し、別行動を取って関宿の岩井村に留まっていました。伊地知正治が率いる救援第二軍は、旧幕府軍を攻撃しました。この旧幕府軍は大半が槍刀部隊だったため、銃撃戦の末に撃退されて宇都宮へ敗走しました。回天隊の隊長・藤沼幸之丞を含め、多くが戦死しました。こうして、伊地知正治が率いる救援第二軍は宇都宮へ向かいました。

次に、悌輔騒動です。悌輔騒動は、1872年5月、新潟県および柏崎県(現・新潟県)で起きた農民一揆です。明治新政府に不満を持つ旧会津藩士・渡辺悌輔らが、大河津分水掘削工事の負担に苦しむ農民等を糾合し、新潟県庁の襲撃を図った事件です。日本の封建社会における最後にして最大の農民一揆と言われています。新潟平野を流れる信濃川とその支流である中ノ口川は、かつては毎年のように洪水を引き起こす暴れ川として恐れられて来ました。この抜本的治水策として、2つの川の分岐点より上流に当たり、日本海に最も近い現在の燕市分水地区(旧・分水町)付近から分水路を掘削する計画が、享保年間より江戸幕府に嘆願されてきましたが、莫大な工事費と流域各藩の利害対立により実現しませんでした。1868年、新潟平野はまたも洪水に見舞われました。「北越戦争」により旧幕府軍が敗退すると、流域の村々は新政府に分水工事着工の嘆願書を提出しました。1869年にようやく着工が認められましたが、総工費80万両のうち60万両が地元負担となりました。流域の村々には重労働の提供が求められ、更には工事の為に移転を余儀なくされる者、水位の低下による水不足を心配する者もあり、分水工事反対の声が逆に強まっていきました。
柏崎県側:元八王寺村(現・燕市)農民の無宿者・川崎九郎次らは、1872年より流域に分水工事反対の決起を呼び掛ける落し文を行っていました。5月9日夜、早鐘を合図に現在の巻潟東IC付近に千数百名の一揆勢が集結して道中、周辺の農民を糾合しながら柏崎県庁(現・柏崎市)へ強訴に向かいました。最盛時には9000名になりましたが、途中で逃げ帰る者も多くいて、11日午後に柏崎に到着した時には6000名ほどとなりました。一揆勢は県庁側役人に次のような嘆願書を提出しました。
1.分水工事の負担の免除
2.氏子・檀家の負担となる社寺の免税
3.年貢を旧幕府時代の水準への据置き
4.外国との交易差止め
更に口頭で、次の事を求めました。
1.分水工事は官費で行い、労賃を滞りなく支払うこと
2.船などでの廻米による年貢を止め、地元で納付するよう改めること
3.村役人を公選制とすること
県側は急遽浪人らを集め、見廻隊を結成して対応に当たりました。翌12日夜、県側は一揆首謀者の宿舎を急襲し、彼等を捕縛しました。川崎九郎次のみが首謀者として罪を引受け、他の者は釈放されました。
新潟県側:元会津藩士・渡辺悌輔と月岡村(現・三条市)安正寺の元住職で元桑名藩兵・月岡帯刀らは、加茂の農民等と図って5月10日より、三条・加茂一帯に決起を呼び掛ける落し文を行いました。12日未明、渡辺悌輔らは村々を強請して約1000名の一揆勢を連れて、東本願寺三条別院に集結しました。渡辺悌輔等は「天照皇 徳川恢復朝敵奸佞征伐」の旗を掲げて、13日朝から新潟県庁へ向けて北上しました。最盛時には6000名となった一揆勢の一部は、暴徒と化して略奪・放火や打壊しを行い、事態収拾に向かった県庁役人や庄屋を殺害しました。県側は一揆勢が新潟町に入るのを阻止するため、平島(現・新潟市)に軍を集め、14日午後に北上して来た一揆勢に威嚇射撃を行い、突撃しようとした首謀者の1人を射殺しました。一揆勢は潰走し、首謀者や殺害の下手人のほとんどが数日の内に捕縛されました。
一揆の後、新潟県令・平松時厚は更迭され、新たに楠本正隆が赴任しました。渡辺悌輔、月岡帯刀、川崎九郎次等、捕縛された首謀者と殺害の下手人等の合わせて7名は10月12日に処刑されました。柏崎県は後に新潟県へ併合されました。一揆の後、中断していた分水工事は再開されましたが、オランダ技師リンドーの報告書などもあり、1875年に中止されました。工事の再着工は1907年(明治40年)で、完成は実に一揆から52年後の1924年(大正13年)の事でした。

その次に、キュリー夫人がラジウムを発見です。1895年11月8日、ドイツのピュルツブルグ大学で放電現象の実験をしていたレントゲンは、放電管から何か目には見えない光線のようなものが出ていて、それが物質を通り抜ける事を発見し、この光線を「エックス線」と名付けました。その数か月後、蛍光物質の研究をしていたフランス人のベクレルは、ウラン鉱物とともに引き出しの中にしまっておいた写真フィルムが感光していた事から、ウラン鉱物が「エックス線」に良く似た光線を放射している事を突き止めました。この光線は「ベクレル線」と呼ばれました。そして、パリにいたキュリー夫人はウラン以外にも「ベクレル線」を出す物質があるのではないかと、さまざまな鉱石を使って実験を始めました。そして、ピッチブレンドと呼ばれる鉱石が、そこに含まれるウランの量から予想されるよりも、強い「ベクレル線」を出す事を見つけました。早速その物質の分離に取りかかり、ついにウランよりも強い放射能を示す元素を取り出す事に成功しました。キュリー夫人は帝政ロシアの支配下にあった祖国ポーランドにちなんで、この元素を「ポロニウム」と名付けました。ピッチブレンドには「ポロニウム」だけでなく、それ以外にもウランより強い放射能を示す元素が舎まれている事がわかり、間もなくしてこの物質の分離にも成功しました。これはラテン語の放射能にちなんで「ラジウム」と命名されました。このように「ポロニウム」と「ラジウム」はキュリー夫人により発見されたのでした。この功績によりキュリー夫人はベクレルとともに1903年に「ノーベル物理学賞」を、また1911年にキュリー夫人が「ノーベル化学賞」を受賞しました。

その次の次に、治安維持法が施行です。治安維持法は、国体(皇室)や私有財産制を否定する運動を取り締まる事を目的として制定された日本の法律です。宗教団体や、右翼活動、自由主義等、政府批判はすべて弾圧の対象となりました。この「治安維持法」によって多くの活動家、運動家が弾圧されました。「治安維持法」の下、1925年〜1945年の間に70000人以上が逮捕され、その10パーセントだけが起訴されました。当時の植民地の朝鮮半島では民族の独立運動の弾圧に用いられ、2万3千人以上が検挙されました。小林多喜二や横浜事件被疑者4名の獄死など、拷問や虐待で命を落とした者が多数存在しました。194人が取調べ中の拷問・私刑によって死亡し、更に1503人が獄中で病死したとされています。朝鮮では45人が死刑執行されました。

そのまた次に、第二次世界大戦:第二次ハリコフ攻防戦です。第二次ハリコフ攻防戦は、ウクライナ屈指の大都市「ハリコフ」の周辺で行われた、ハリコフ奪還を目指すソ連軍と枢軸軍の戦いです。ドイツのモスクワへの攻勢「タイフーン作戦」を防ぎ、ドイツ軍に進撃の余力が無いと見たスターリンによって企図された攻勢です。ソ連軍が大敗し、ドイツ軍の南部戦線での攻勢「ブラウ作戦」で、ソ連軍の一方的敗走を招く原因となりました。1942年5月12日、副攻撃部隊がソ連第28軍を中心に右翼の第21軍・左翼の第38軍がドネツ川を越え、ドイツ第6軍左翼に攻撃を開始しました。この地点で攻勢の予定の無いドイツ軍は、突破を許しました。突出部のソ連第9軍・第57軍が防御しつつ、主攻撃部隊のソ連第6軍がドイツ第6軍右翼へ攻撃を開始し、クラスノグラードに迫りました。しかし、ドイツ軍の迅速な増援の展開とソ連の熟練不足のため、前進速度は1日数kmに過ぎず、ドイツ軍の反撃を許す事になりました。このソ連の攻撃に対し、増援部隊の手当てを終えたドイツ軍は、13日に「フレデリクス作戦」を南翼において発動する事を決定しました。クライストの第1装甲軍に、第3装甲軍団・第44軍団・第52軍団から成る増援を加えて再編成して「クライスト軍集団」に改組し、17日にイジュム突出部への攻撃を開始しました。また、ソ連副攻撃部隊への反撃も開始されました。ソ連軍の指揮系統はここで破綻し、各部隊は個々に目の前の敵を防御するのに終始し、連絡を取り合えないまま包囲されていきました。28日に包囲戦が終わった時、24万人が捕虜となり、大半の戦車はドネツ川を渡れずに破壊・捕獲され、航空機の半数が失われました。そして、何より攻勢を担った優秀な将校が、多数戦死してしまいました。

最後に、四川大地震が発生です。四川省アバ・チベット族チャン族自治州汶川県で、M7.9の地震が発生しました。死者8万7476人と言われています。家屋の倒壊は21万6千棟、損壊家屋は415万棟、耐震基準の甘さと手抜き工事の横行が指摘されました。被害者の救済のための寄付金と称する詐欺事件が発生しました。また、中国紅十字会(赤十字社)のサイトが不正侵入による改竄を受け、義援金の振込先を別の口座番号に書き換えられる被害も出ました。

今日の誕生日:称光天皇(第101代天皇)、フローレンス・ナイチンゲール、平野国臣、雲井龍雄、武者小路実篤、草野心平、川津祐介、西川のりお(のりお・よしお)、風吹ジュン、余貴美子、EPO、渡辺徹、奥田民生(ユニコーン)、坂元裕二、裕木奈江、大久保佳代子(オアシズ)、鉄拳、マイケル、マギー、井端弘和、高見盛精彦、石黒彩(元モーニング娘。)、福田薫(U字工事)、石川直宏、 中西智代梨(AKB48、元HKT48)

今日の記念日:ナイチンゲールデー、国際看護師の日、看護の日、民生委員・児童委員の日、海上保安の日、アセロラの日、わんにゃんの日

今日の「今日訓」:本日は、ナイチンゲールの誕生日で「ナイチンゲールデー」、「国際看護師の日」、「看護の日」となりました。1917年に「民生委員・児童委員制度」の前身となる岡山県の「済世顧問制度」が発足した事で「民生委員・児童委員の日」、1948年に「海上保安庁」が開庁した事で「海上保安の日」、アセロラの初収穫の時期である事から「アセロラの日」、「わん(1)」と「にゃん(2)」の語呂合わせで「わんにゃんの日」となりました。
0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する