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2015年05月10日01:49

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5月10日の日記

今日の出来事:1552年−赤塚の戦い、1590年−伊達政道(小次郎)謀殺事件、1857年−インドでインド大反乱(セポイの乱)が起こる、1940年−ウィンストン・チャーチルがイギリス首相に就任、1940年−イギリス軍がアイスランドに侵攻、1945年−第1回徳山空襲、1975年−ソニーがベータマックスの家庭用ビデオテープレコーダ1号機、SL−6300を発売、1984年−グリコ・森永事件: 報道機関に「かい人21面相」から「グリコ製品に毒物を混入した」との脅迫状が送られる(兵庫青酸菓子ばら撒き事件)

今日は、赤塚の戦いです。赤塚の戦いは、尾張・赤塚で起きた戦いです。織田信長が当主となって最初の戦闘です。尾張で勢力を拡大していた織田信秀が死去し、子・信長が跡を継ぐと鳴海城主・山口教継は駿河の今川義元に寝返りました。山口教継は子・教吉を鳴海城に置き、笠寺城を修築して今川方の葛山長嘉、岡部元信、三浦義就、飯尾乗連、浅井政敏を引き入れると、自らは桜中村城に立て籠もりました。1552年5月10日、織田信長は兵800で那古野城を出陣し、中根村を駆け抜けて小鳴海に移動すると三の山へ登りました。山口教吉は三の山の東、鳴海から北にある赤塚に1500の兵で出陣しました。これを見た織田信長も赤塚に進軍し、両者は先陣を繰り出して戦闘に突入しました。織田信長の先陣には、父・信秀より付けられた四家老の一人・内藤勝介や蜂屋頼隆がいました。矢戦の後、槍戦となり、午前10時から正午頃まで乱戦が続けられました。織田信長側は30騎が討死しました。しかし、勝敗は付かずに帰陣しました。

次に、伊達政道(小次郎)謀殺事件です。伊達政道は伊達輝宗の次男、母は最上義守の娘(最上義光の妹)の義姫、伊達政宗の同母弟で幼名は竺丸、通称は小次郎です。母の義姫(お東の方)は最上家と対立した政宗よりも弟の小次郎を愛したため、伊達家内部で政宗と小次郎による家督争いが起こりました。しかし、伊達輝宗は1584年、政宗に家督を譲りました。1587年、蘆名氏の後継者問題が起こると小次郎が蘆名氏の当主として推薦されましたが、蘆名氏の執権である金上盛備の策略によって佐竹義重の子・義広が当主となりました。伊達政宗が豊臣秀吉の「小田原征伐」に参陣するため母・義姫の招きを受けて赴いた時、義姫と小次郎によって政宗は毒殺されかけました。これがきっかけで伊達政宗自らが小次郎を殺害しました。

その次に、インドでインド大反乱(セポイの乱)が起こるです。この大反乱は、1857年5月10日にインド北部の都市メーラトで「シパーヒー」が蜂起した事で始まりました。「シパーヒー」は、イギリス「東インド会社」が編成したインド人傭兵の事で、セポイとも言われています。この傭兵団は上層「カースト」に位置するヒンドゥー教徒と上流階級のイスラム教徒で構成されていました。彼らが反乱を起こした原因は、イギリス本国で新たに採用されたライフル銃である「P1853エンフィールド銃」の薬包に、ヒンドゥー教徒が神聖視する牛の脂と、イスラム教徒が不浄とみなしている豚の脂が使われていた事です。彼らはこれをキリスト教への改宗を余儀なくさせるための企みとみなして、弾薬の受領を拒否するなどしましたが、これらの行為は懲罰の対象とされました。「東インド会社」は緊迫する状況を打開するため牛豚脂使用の噂を否定しましたが、不信は解消されず「シパーヒー」は反乱を起こしたのです。メーラトの反乱部隊は翌11日にデリーに到着し、デリー駐留の「シパーヒー部隊」を味方につけて駐留イギリス軍を駆逐し、デリーを占拠しました。ムガル皇帝バハードゥル・シャー2世を反乱軍の最高指導者とし、皇帝復権を宣言すると対イギリス戦争開始を表明しました。この反乱を機に、旧王侯、旧地主、農民、都市住民ら反英勢力が、宗教・階級の枠を越えて一斉に蜂起しました。デリーでは7月にバフト・ハーンの率いる軍が到着した事から反乱軍が勢いづき、デリー防衛戦を優位に進めました。デリーではムガル帝国の国家体制が整えられたかに見えましたが、内紛もあって反乱軍はまとまりに欠き、支配地域の拡大にも陰りが見え始めました。「シパーヒー」達は高位高官についた経験がなく、有能な指揮官に事欠いていました。「シパーヒー」が離脱した事によって兵力不足となっていたイギリスは、ネパールのグルカ兵をはじめとする周辺民族や旧支配階級を懐柔するなどの政治的工作を実施し、反乱勢力鎮圧に向けて組織を立て直して、反乱軍に対する攻勢を強めました。1857年8月からはデリーの反乱軍は劣勢となり、9月になるとイギリス軍のデリー総攻撃が開始されました。バハードゥル・シャー2世は王城レッドフォートから脱出し、イギリスに投降しました。こうして、デリーにおける大反乱は4ヶ月で終結しました。その後、大反乱の舞台は地方に移る事になります。メーラトの反乱後、反乱はインド北部のガンジス川流域を中心に拡大し、カーンプルやアワド、ビハールなどで反乱地方政権が発生しました。反乱の勢力は一時国土の3分の2にまで及びました。イギリスは反乱の原因となったエンフィールド銃を大量に配備し、不正確な命中精度で短い射程でしか射撃できない旧式の滑腔銃を持った反乱軍を、射程外の距離から正確に射撃する事で圧倒しました。また捕虜となった反乱軍兵士への残虐な処刑、大砲の砲口に縛り付けて木製の砲弾を発射して体を四散させる等を見せしめとして行い、恐怖で反乱軍とインド民衆の士気を砕こうとしました。有名な激戦地となったジャーンシー藩王国では、騎兵を率いて「インドのジャンヌ・ダルク」と呼ばれた王妃ラクシュミー・バーイーの抵抗が、1858年まで続きました。ムガル皇帝バハードゥル・シャー2世が先導者として力不足であった事なども影響し、反乱軍は最終的には個別撃破されて消滅しました。反乱の失敗によって、ムガル帝国の権威は完全に消滅し、反英勢力も衰退しました。イギリス政府は、一会社に広大なインドの領土を託す事が限界であるとして、この反乱の全責任を負わせる形でイギリス東インド会社を解散させると、ムガル皇帝をビルマに流刑としてインドを直接統治する事にしました。そして、1877年にはイギリスのヴィクトリア女王を皇帝とする「インド帝国」の成立を宣言し、本国政府がインドを統治する事となりました。

その次の次に、イギリス軍がアイスランドに侵攻です。アイスランド侵攻は、「第二次世界大戦」でイギリスが、中立国「アイスランド王国」へ侵攻した軍事行動です。作戦名は「フォーク作戦」です。1940年5月10日早朝、イギリス海兵隊が中立国「アイスランド王国」の首都・レイキャビクへ上陸し、侵攻作戦は開始されました。抵抗もなく上陸した部隊は、速やかに通信網を封鎖し、戦略上の要所の確保およびドイツ人民間人の逮捕を行いました。部隊は現地の輸送手段を徴発し、クヴァールフィヨルズル、カルダザルネース、サンドスケイズ、アクラネースへと移動し、ドイツ軍の反撃時に予想される敵上陸・降下地点の確保を行いました。数日のうちに対空砲部隊がレイキャビクに配置され、分遣隊はアークレイリへ送られました。同日夜、アイスランド政府は、この攻撃はアイスランドの中立と独立を“甚だしく侵す”ものであり、すべての損害に対する補償を求めるという旨の抗議文書を提出しました。それに対しイギリスはその補償、有益な事業協定の締結、内政不干渉および終戦後の全部隊撤収を約束しました。アイスランド当局は正式には中立の方針を維持しましたが、事実上侵攻軍に対しての協力を行いました。侵攻軍は746名の海兵隊からなっていましたが、装備は不十分で基本的な訓練も不足していました。彼らは作戦には成功しましたが、10万3千平方kmの島を守備するに戦力不足でした。5月17日、4000名のイギリス陸軍部隊が到着し、海兵隊と交代しました。後に、アメリカ軍が戦争の残りの期間、アイスランドを占領しました。

最後に、第1回徳山空襲です。1945年5月10日、「B−29」117機が広島・山口両県に飛来し、山口県岩国と徳山の軍事施設が爆撃されました。徳山市では、午前10時過ぎに80機の編隊が侵入し、第三海軍燃料廠、大浦油糟所、徳山鉄板工場の一部などを約1時間にわたって爆撃しました。燃料廠の全機能が破壊され、死者500以上、重軽傷者は約1000名に及び、死者の中には動員学徒も含まれていました。

今日の誕生日:清和天皇(第56代天皇)、伏見天皇(第92代天皇)、ジョン・ウィルクス・ブース、トーマス・リプトン、本庄繁、アルフレート・ヨードル、橋田壽賀子、永井一郎、扇千景、高見映(ノッポさん)、山口果林、喜多嶋隆、丸山圭子、シド・ヴィシャス(セックス・ピストルズ)、ボノ(U2)、藤あや子、草刈民代、田代尚子、武田修宏、デニス・ベルカンプ、石澤智幸(テツandトモ)、島田珠代、金正男、片山陽加(元AKB48)、志田未来、擬宝珠夏春都

今日の記念日:母の日、愛鳥週間、コットンの日、地質の日、街区表示板の日、ゴトウの日、ファイトの日、コンクリート住宅の日、メイトーの日、リプトンの日、奄美黒糖焼酎の日

今日の「今日訓」:本日は、「母の日」です。アメリカのアンナ・ジャービスが母の死後、その墓に白いカーネーションを飾った事が由来です。1876年に日本初の地質図「日本蝦夷地質要略之図」が作成された事で「地質の日」、1947年4月10日に「愛鳥の日」と制定されましたが、まだ冬鳥が多い時期である事から後に1か月ずらして5月10日としました。1950年からは「愛鳥週間」となりました。1962年に住居表示に関する法律が施行された事で「街区表示板の日」、「コッ(5)トン(10)」の語呂合わせで「コットンの日」、「ゴ(5)トウ(10)」の語呂合わせで長崎県南松浦郡新上五島町(通称・五島列島)「ゴトウの日」、「ファイ(5)ト(10)」の語呂合わせで「ファイトの日」、「コ(5)・ンクリー・ト(10)」の語呂合わせで「コンクリート住宅の日」、5月(メイ)10日(トー)の語呂合わせで「 メイトーの日」、「こ(5)く(9)とう (10)」の語呂合わせで5月9日、10日を「奄美黒糖焼酎の日」、リプトンの創業者トーマス・リプトンの誕生日から「リプトンの日」となりました。
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