mixiユーザー(id:13668040)

2015年05月06日16:18

188 view

濁るには濁るなりの理由がある、そして理由はない!

声が濁っている、しゃがれている、割れているなど、そうやって歌わなければいけない楽曲がある。そういう歌い方でなければ伝わらない何かがあるように思える。忌野清志郎の声は初期のRCサクセッションの頃から、もう高く濁っている。よく彼の伝記的な事実がTVの特集番組でもひもとかれているけれども、そういった物語とは別に彼はボーカリストとして、濁る声、枯れる声、割れる声、叫ぶ声などの必要性を、単なる技術としてではなく、持ってスタートしたのだろうと思う。彼の芸名自体にそれはもう表れていた。

日本の例であげただけで、これはこの前の日記であげたボーカリストの面々はみな一様にそういった声を持っているといっていい。ただ理由がある/ないということは、聞いていればちょっとわかるようなところがある。では、ポールのしゃがれた声とジョン・レノンの声は同じだろうか。

そういった声のあり方について、最近よく聞いて考える。ジョン・レノンはどこかブライアン・ジョーンズに近い存在だ。彼も実はオノ・ヨーコがいなければ80年代まで生き延びることはできなかった人ではないかと私は思う。ポールとキース、ミックなどは、器用だ。技術としても濁りを出せる。しかし、生傷をともなう必要はない。

声が濁るのには、理由はある人もいれば、ない人もいるように思う。ブライアン・ジョーンズは、歌ではなく、楽器によってそれを行っている稀有な存在なのだと思う。

美術のわび・さびは、生の傷や死を踏まえたもので、この枯れた、音楽の濁った声と一脈も二脈も通じていると私は考える。
5 9

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する