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2015年05月06日00:39

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5月6日の日記

今日の出来事:604年−聖徳太子が十七条憲法を制定、1440年−結城合戦、1527年−ローマ略奪、1569年−第二次薩埵峠の戦い、1671年−伊達騒動(寛文事件)、1862−吉田東洋暗殺事件、1869年−箱館戊辰戦争:宮古湾海戦、1937年−ドイツの飛行船ヒンデンブルク号爆発事故、1941年−ヨシフ・スターリンがソ連の第4代人民委員会議議長(首相)に就任

今日は、聖徳太子が十七条憲法を制定です。日本最古の憲法といわれる「十七条憲法」が聖徳太子により、制定されました。以下が十七条です。
第一条:和を以(も)って貴(とうと)しとなし、忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。「和をなによりも大切なものとし、いさかいをおこさぬことを根本としなさい。」
第二条:篤(あつ)く三宝(さんぼう)を敬え。三宝とは仏と法と僧となり。「厚く三宝(仏教)を信奉しなさい。3つの宝とは仏・法理・僧侶のことである。」
第三条:詔(みことのり)を承(う)けては必ず謹(つつし)め。「王(天皇)の命令をうけたならば、かならず謹んでそれにしたがいなさい。」
第四条:群卿百寮(ぐんけいひゃくりょう)、礼をもって本(もと)とせよ。「政府高官や一般官吏たちは、礼の精神を根本にもちなさい。」
第五条:餮(あじわいのむさぼり)を絶ち、欲(たからのほしみ)を棄(す)てて、明らかに訴訟(うったえ)を弁(わきま)えよ。「官吏たちは饗応や財物への欲望をすて、訴訟を厳正に審査しなさい。」
第六条:悪を懲(こら)し善を勧(すす)むるは、古(いにしえ)の良き典(のり)なり。「悪をこらしめて善をすすめるのは、古くからのよいしきたりである。」
第七条:人各(おのおの)任有り。掌(つかさど)ること宜(よろ)しく濫(みだ)れざるべし。「人にはそれぞれの任務がある。それにあたっては職務内容を忠実に履行し、権限を乱用してはならない。」
第八条:群卿百寮、早く朝(まい)りて晏(おそ)く退け。「官吏たちは、早くから出仕し、夕方おそくなってから退出しなさい。」
第九条:信はこれ義の本(もと)なり。事毎(ことごと)に信あれ。「真心は人の道の根本である。何事にも真心がなければいけない。」
第十条:忿(こころのいかり)を絶ち瞋(おもてのいかり)を棄(す)て、人の違(たが)うを怒らざれ。「心の中の憤りをなくし、憤りを表情にださぬようにし、ほかの人が自分とことなったことをしても怒ってはならない。」
第十一条:功過(こうか)を明らかに察して、賞罰必ず当てよ。「官吏たちの功績・過失をよくみて、それにみあう賞罰をかならずおこないなさい。」
第十二条:国司(こくし)国造(こくぞう)、百姓(ひゃくせい)に斂(おさ)めとることなかれ。国に二君なく、民(たみ)に両主なし。「国司・国造は勝手に人民から税をとってはならない。国に2人の君主はなく、人民にとって2人の主人などいない。」
第十三条:もろもろの官に任ずる者同じく職掌(しょくしょう)を知れ。「いろいろな官職に任じられた者たちは、前任者と同じように職掌を熟知するようにしなさい。」
第十四条:群臣百寮、嫉妬(しっと)あることなかれ。われすでに人を嫉(ねた)めば、人またわれを嫉む。「官吏たちは、嫉妬の気持ちをもってはならない。自分がまず相手を嫉妬すれば、相手もまた自分を嫉妬する。」
第十五条:私に背(そむ)きて公(おおやけ)に向うは、これ臣の道なり。「私心をすてて公務にむかうのは、臣たるものの道である。」
第十六条:民を使うに時をもってするは、古(いにしえ)の良き典(のり)なり。「人民を使役するにはその時期をよく考えてする、とは昔の人のよい教えである。」
第十七条:それ事(こと)は独(ひと)り断(さだ)むべからず。必ず衆とともによろしく論(あげつら)うべし。「ものごとはひとりで判断してはいけない。かならずみんなで論議して判断しなさい。」

次に、結城合戦です。結城合戦は、1440年に関東地方で起こった室町幕府と結城氏ら関東の諸豪族との間の戦いです。1435年の鎌倉公方・足利持氏と補佐役の関東管領・上杉憲実の対立から、1438年に「永享の乱」が発生しました。足利持氏は敗れて自殺し、鎌倉府は滅亡しました。「永享の乱」後に室町幕府6代将軍・足利義教が、実子を鎌倉公方として下向させようとすると、1440年に足利持氏の残党や下総の結城氏朝・持朝父子などが「永享の乱」で自殺した足利持氏の遺児・春王丸、安王丸を擁立し、室町幕府に対して反乱を起こしました。幕府軍は総大将・上杉清方、今川範忠や小笠原政康などの諸将や関東の国人などを討伐のために派遣し、結城氏朝らの立て籠もった結城城を包囲しました。結城氏朝・持朝は敗北して討死、結城氏は一時滅亡しました。足利持氏の遺児・春王丸、安王丸は、足利義教の命を受けた長尾実景によって美濃で殺されました。戦火は鎌倉公方の支配下にあった奥州にも飛び火し、足利持氏の叔父で「永享の乱」で幕府側に寝返った篠川公方・足利満直が結城氏を支持する諸将に討たれました。翌年には京都で「結城合戦」の祝勝会の名目で招かれた将軍・足利義教が、家臣の赤松満祐に暗殺されました(嘉吉の乱)。1446年に関東諸将の要請で足利持氏の遺児・成氏の鎌倉帰還が実現し、鎌倉府が復活しました。そして、足利成氏により結城氏朝の末子・結城成朝が召し出されて、結城氏の再興が許されました。しかし、足利成氏は後に上杉氏と対立し、「享徳の乱」を起こす事になります。「結城合戦」は「永享の乱」の延長線上の出来事でしたが、合戦の規模は「永享の乱」よりも大きくなりました。「里見八犬伝」は父親と一緒に結城側で戦った里見義実が、死を決意した父親と別れて落ち延びるところから始まります。

その次に、ローマ略奪です。ローマ略奪は1527年5月、神聖ローマ皇帝兼スペイン王・カール5世の軍勢がイタリアに侵攻し、教皇領のローマで殺戮、破壊、強奪、強姦などを行った事件です。イタリアを巡ってはヴァロワ朝のフランス王国と神聖ローマ帝国による衝突が繰り返されてきました(イタリア戦争)。1515年にフランス王・フランソワ1世の軍がミラノに侵攻し、1521年にミラノ公国を支配するスフォルツァ家を追放しました。しかし、神聖ローマ皇帝・カール5世は教皇レオ10世と結んでミラノを攻めると、フランス軍はミラノから退去しました。しかし、教皇クレメンス7世(レオ10世の従弟)はフランス王と皇帝のどちらに就くか揺れ、フランスと結んだ事が「ローマ略奪」のきっかけとなりました。1526年、「パヴィアの戦い」に敗れ、カール5世の捕虜になっていたフランソワ1世が釈放されると、カール5世に対抗する「コニャック同盟」を結成しました。教皇もこれに加わり、皇帝と同盟していたフェラーラ公アルフォンソ1世・デステを破門し、ローマに幽閉しました。これに対し、カール5世はローマへ軍勢を差し向けて、スペイン兵、イタリア兵などからなる皇帝軍とドイツの傭兵(ランツクネヒト)がローマに進軍しました。1527年5月6日、ローマで皇帝軍と教皇軍が衝突しましたが、クレメンス7世はサンタンジェロ城に逃げ込み、教皇軍は敗北しました。この時、皇帝軍の指揮官・ブルボン公シャルル3世が戦死しました。統制を失った軍勢は、ローマで破壊と略奪の限りを尽くしました。市民らにはなすすべもなく、6月に教皇は降伏しました。皇帝軍がローマを撤退したのは翌年でした。ローマに集まっていた文化人・芸術家は殺されるか、他の都市へ逃れました。文化財は奪われて教会なども破壊され、ルネサンス文化の中心だったローマは壊滅し、停滞の時期を迎えました。これによって、1450年代から続いていた盛期「ルネサンス時代」は終わりを告げました。1529年、教皇と皇帝は「バルセロナ条約」を結んで和解、イタリアはカール5世の支配下に入りました。1530年、ボローニャで教皇クレメンス7世の下、カール5世に対して、神聖ローマ皇帝の戴冠式が行われました。アルフォンソ1世も破門を解かれ、モデナとレッジョを与えられました。フィレンツェ共和国を治めていたクレメンス7世の庶子・アレッサンドロもこの騒ぎに乗じた市民に追放されましたが、1530年にカール5世の支援で復帰し、1532年に公爵位を授与されて「フィレンツェ公国」を成立させました。

その次の次に、第二次薩埵峠の戦いです。「第一次薩埵峠の戦い」で武田軍の馬場信春により、駿府が陥落しました。一方、相模の北条氏康は今川氏真の要請を受けて出陣の準備を整えていましたが、整わないうちに駿府が陥落したという報告が入りました。愛娘の早川殿が乗り物にも乗れずに徒歩で脱出したという報告を受けた北条氏康は激しく憤慨し、越後の上杉謙信に対して「この耻辱そそぎがたく候」と書状を送りました。北条氏康は嫡男・氏政に4万5千の兵を率いさせて小田原城を出発させ、年が変わった1569年1月に伊豆三島に入りました。北条氏政は、伊豆水軍を掛川城に派遣して援軍を送らせ、自身は陸路駿府に向かいました。これを知った武田軍は、先の今川軍と同様に1万8千の兵で薩埵峠を固めたため、両軍がにらみ合う形となりました。武田信玄は、常陸の佐竹義重や下総の簗田晴助などに北条領攻撃を要請しました。一方、今川氏真や北条氏康も、越後の上杉謙信に武田領信濃を攻撃するように要請しました。武田軍が今川方の大宮城に攻撃を仕掛けましたが、北条の援軍などにより敗退しました。その後、兵糧補給の問題が発生しました。両者は本格的な戦いに突入しないまま、3ヶ月間の睨み合いを続けました。5月に武田信玄は、穴山信君を江尻城に残して甲斐に兵を撤退させました。この戦いで、米倉晴継らが戦死しました。その後、北条氏政も幾つかの城を傘下に収めた後、相模に兵を撤退させると、徳川方と交渉を開始しました。武田氏と北条氏の戦いは引き分けに終わりましたが、掛川城での徳川家康と今川氏真の籠城戦が、北条氏の仲介によって開城となり、北条氏と徳川氏は同盟交渉を開始します。これに対抗して、武田方も北条氏を牽制した後に大宮城を攻略し、今川方の勢力を掃討しました。

そのまた次に、伊達騒動です。「加賀騒動」、「黒田騒動」と並び、「三大お家騒動」の一つです。仙台藩3代藩主・伊達綱宗は遊興放蕩三昧であったため、叔父にあたる一関藩主・伊達宗勝がこれを諌言しましたが聞き入れられませんでした。このため伊達宗勝は、親族大名であった岡山藩主・池田光政、柳川藩主・立花忠茂、宮津藩主・京極高国と相談の上、老中・酒井忠清に伊達綱宗と仙台藩家老に注意するよう提訴しました。それでも伊達綱宗の放蕩は止まないため、幕府に伊達綱宗の隠居と嫡子・亀千代(伊達綱村)の家督相続を願い出ました。こうして、伊達綱宗は21歳で強制隠居させられ、4代藩主にわずか2歳の伊達綱村が就任しました。伊達綱村が藩主になると、初めは伊達宗勝や最高の相談役である立花忠茂が信任する奉行・奥山常辰が藩政を行いましたが、失脚後に伊達宗勝自身が実権を掌握しました。奉行の原田甲斐も加担して、諫言した里見重勝の跡式を認可せず、故意に無嗣断絶に追い込んだり、藩主・綱村の毒殺未遂事件が発生(毒見役が死亡)、席次問題に端を発した伊達宗勝暗殺計画が発覚し、首謀者・伊東重孝が一家ともども処刑(伊藤家一族処罰事件)が起こりました。かつて奥山常辰を失脚に追い込んだ一門の伊達宗重と伊達宗勝の甥・伊達宗倫の所領紛争(谷地騒動)が起こり、一旦は伊達宗重は裁定案を呑みましたが、伊達宗勝の寵臣の今村安長を筆頭とする検分役人による郡境検分で問題が生じ、伊達宗勝派の専横を幕府に上訴する事になりました。大老・酒井忠清邸で、酒井忠清を初め老中全員と幕府大目付も列座する中で審問が行われましたが、その審問中の控え室にて原田甲斐は伊達宗重を斬殺し、老中のいる部屋に向かって突入しました。驚いた柴田朝意は原田甲斐と斬り合いになり、互いに負傷しました。聞役の蜂屋可広も柴田朝意に加勢しましたが、混乱した酒井家家臣に3人とも斬られて、原田甲斐は即死、柴田朝意もその日のうちに、蜂屋可広は翌日に死亡しました(寛文事件)。関係者が死亡した事件の事後処理で、藩主・伊達綱村は幼少のために、お構い無しとされました。大老宅で刃傷沙汰を起こした原田家は元より、裁判の争点となった伊達宗勝派及び、藩主の代行としての責任を持つ両後見人が処罰され、特に年長の後見人としての責務を問われた伊達宗勝の一関藩は改易となりました。この後、藩主としての権力を強めようとした伊達綱村は、次第に自身の側近を藩の重職に据えるようになりました。これに不快感を示した伊達一門と旧臣は伊達綱村に諌言書を提出しました。そして一門7名と奉行5名の計12名の連名で、幕府に伊達綱村の隠居願いを提出しました。この内紛が5代将軍・徳川綱吉の耳に達し、仙台藩の改易が危惧されるようになり、老中・稲葉正往は伊達綱村に状況を説明し、隠居を勧告しました。伊達綱村は幕府に対して隠居願いを提出し、綱村に実子が無かったため、従弟・伊達吉村が5代藩主となりました。「伊達騒動」は伊達綱村の隠居でようやく終止符が打たれる事になりました。

そのまた次の次に、吉田東洋暗殺事件です。吉田東洋は土佐藩主・山内容堂によって大目付に抜擢され、参政として藩政改革を主導しました。参勤交代に伴って江戸へ出府すると酒宴における「旗本殴打事件」を引き起こして罷免され、高知郊外に私塾(少林塾)を開き、後藤象二郎や福岡孝悌、岩崎弥太郎などの若手藩士を教授しました。やがて、彼らが「新おこぜ組」と称される一大勢力となり、幕末期の土佐藩の動向に大きな影響を与える事になります。やがて赦免された吉田東洋は、参政として藩政に復帰しました。法律書「海南政典」を定め、門閥打破・殖産興業・軍制改革・開国貿易など、富国強兵を目的とした改革を遂行しました。しかし、このような革新的な改革は保守的な門閥勢力や尊皇攘夷を唱える「土佐勤王党」との政治的対立を生じさせる結果となり、「土佐勤王党」の那須信吾・大石団蔵・安岡嘉助によって暗殺され、首級を鏡川河原に晒されました。吉田東洋を暗殺した3人のその後です。
那須信吾:長州藩に逃亡後、「天誅組の乱」に参加して軍監を務めるが戦死
安岡嘉助:京都で久坂玄瑞に保護され、「天誅組の乱」に参加して捕えられ処刑
大石団蔵:京都で久坂玄瑞に保護され、後に薩摩藩士・奈良原繁の養子として薩摩藩に所属するようになる。その後、五代友厚らとともにイギリスへ密留学する。維新後は鹿児島県立中学造士館で数学教師となり、その後に沖縄県庁に勤める。

さらに次に、箱館戊辰戦争:宮古湾海戦です。「江戸城無血開城」に対して徹底抗戦を主張した榎本武揚が率いる旧幕府艦隊は、江戸を脱走後、蝦夷地の箱館を占領して箱館政権を樹立しました。元フランス海軍士官候補生ニコールの発案で海軍奉行・荒井郁之助、回天艦長・甲賀源吾らが宮古湾に停泊中の「甲鉄」を奪取する作戦を立案し、フランス軍事顧問団のブリュネと総裁・榎本武揚が承認しました。斬り込みのための陸兵を乗せた「回天」、「蟠竜」、「高雄」の3艦が外国旗を掲げて宮古湾に突入し、攻撃開始と同時に日章旗に改めて「甲鉄」に接舷し、陸兵が斬り込んで舵と機関を占拠するというものでした。第3国の旗を掲げて近づき、攻撃直前に自国の旗を掲げるのは騙し討ちですが、奇計を用いる事は「万国公法」で認められていました(アボルダージュ)。箱館を出港した3艦は、「回天」・「蟠竜」・「高雄」の順に互いを大綱で繋いで一列縦隊で進みました。途中、暴風雨に遭遇して「蟠竜」が離脱し、「高雄」は間に合いませんでした。結局、「回天」のみで「アボルダージュ」を決行しました。「回天」はアメリカ国旗を掲げて「甲鉄」に接近すると、作戦通りにアメリカ国旗を下ろして日章旗を掲げて接舷しました。すると、「甲鉄」の隣で唯一警戒に当たっていた薩摩藩籍の「春日」から敵襲を知らせる空砲が轟きました。「回天」には、海軍:海軍奉行・荒井郁之助、艦長・甲賀源吾、以下200余名、元仏海軍・ニコール、陸軍:陸軍奉行並・土方歳三、添役・相馬主計、同介・野村利三郎、彰義隊10名、神木隊36名が乗船していました。奇襲には成功しましたが、「回天」は舷側に水車が飛び出した外輪船で横付けができず、小回りも利かなかったため、艦長の甲賀源吾の必死の操艦にもかかわらず、「回天」の船首が甲鉄の船腹に突っ込んで乗り上げる形となってしまいました。それでも「回天」からは、先発隊が「甲鉄」の甲板に飛び降りて斬り込んでいきました。しかし、ガトリング砲など強力な武器の恰好の標的となってしまう位置だったため、乗り移る前に「回天」の甲板上で倒れる兵が続出し、ニコール、相馬主計などが負傷しました。「春日」をはじめ周囲にいた新政府軍艦船も次第に戦闘準備が整うと、「回天」は敵艦に包囲されて集中砲撃を浴びました。甲賀源吾は腕、胸を撃ち抜かれましたが、なおも指揮を振るいましたが、弾丸に頭を貫かれて戦死しました。形勢不利と見た荒井郁之助が作戦中止を決め、自ら舵を握って「甲鉄」から船体を離すと「回天」は宮古湾を離脱しました。「甲鉄」に斬り込んでいった野村利三郎ら数名は、撤退に間に合わずに戦死しました。この間、約30分だったと言われています。艦将・甲賀源吾、軍監役・矢作平三郎、新選組・野村利三郎、彰義隊・笠間金八郎、加藤作太郎、海軍士官・渡辺大蔵、川島金次郎などが戦死しました。新政府軍は直ちに追撃を開始しました。「回天」は撤退途中に「蟠竜」と合流して箱館まで退却しましたが、機関故障を起こしていた「高雄」は「甲鉄」と「春日」によって捕捉されました。艦長・古川節蔵以下95名の乗組員は田野畑村付近に上陸し、船を焼いた後に盛岡藩に投降しました。新政府海軍の砲術士官として「春日」に乗船していた東郷平八郎は、この「回天」による奇襲の衝撃を「意外こそ起死回生の秘訣」として後年まで忘れず、「日本海海戦」での采配に生かしたと言います。また、危険な作戦を実行して勇敢に戦った甲賀源吾について、「甲賀という男は天晴れな勇士であった」と高く評価しています。現在、宮古市には東郷平八郎が残したこの海戦に関するメモが石碑となっており、観光地になっています。

最後に、ヒンデンブルク号爆発事故です。アメリカ合衆国ニュージャージー州レイクハースト海軍飛行場で発生した、ドイツの硬式飛行船・ヒンデンブルク号の爆発・炎上事故です。乗員・乗客35人と地上の作業員1名が死亡しました。

今日の誕生日:徳川家定(江戸幕府第13代将軍)、中岡慎太郎、鳩山和夫、井上靖、コロムビア・トップ(コロムビア・トップ・ライト)、イビチャ・オシム、村上雅則、中野良子、向井千秋、高浪慶太郎(元ピチカート・ファイヴ)、荒木大輔、宮脇“JOE”知史(ZIGGY)、吉田美和(DREAMS COME TRUE)、木本武宏(TKO)、スネオヘアー(渡辺健二)、高橋尚子、増田未亜、武井壮、山中すみか、押尾学、井上トロ、メジロドーベル

今日の記念日:立夏、熱中症対策の日、国際ノーダイエットデー、コロコロの日、ゴムの日、迷路の日、コロッケの日、さくらパンダの日

今日の「今日訓」:本日は、二十四節気の一つ「立夏」です。「夏の立つがゆへなり」(夏の気配が感じられるころ)という意味です。「立夏」である事から「熱中症対策の日」、「余命1ヶ月の花嫁」長島千恵の命日です。千恵さんが伝えたかった「乳がん検診の大切さ」と「生きることの素晴らしさ」を多くの人の心の中に残るようにとの願いが込められています。乳がんと闘う日々の中で、長島千恵さんを励まし続けたキャラクター「さくらパンダ」にちなんで「さくらパンダの日」と制定されました。世間のダイエットへのプレッシャーに対抗し、ダイエットによる健康影響を訴える日「国際ノーダイエットデー」、「コ(5)ロ(6)コ(5)ロ(6)」の語呂合わせで、粘着カーペットクリーナー「コロコロの日」、「ゴ(5)ム(6)」の語呂合わせで「ゴムの日」、「may(5)ロ(6)」の語呂合わせで「迷路の日」、「コ(5)ロ(6)ッケ」の語呂合わせで「コロッケの日」となりました。
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