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2015年05月05日01:41

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5月5日の日記

今日の出来事:1180年−以仁王が平氏追討の令旨を発する、1260年−クビライがモンゴル帝国第5代皇帝(ハーン)に即位、1945年−風船爆弾事件、1945年−九州大学生体解剖事件、1995年−オウム真理教による新宿駅青酸ガス殺人未遂事件、2000年−与野市・浦和市・大宮市(現在のさいたま市)で「さいたま新都心」が街開き、2013年−松井秀喜の引退式と長嶋茂雄・松井秀喜の国民栄誉賞授与式

今日は、以仁王が平氏追討の令旨を発するです。後白河法皇の第三皇子・以仁王は、安徳天皇の即位によって皇位の望みが断たれました。摂津源氏・源頼政の嫡男・仲綱と平宗盛(清盛の三男)の馬をめぐる軋轢がありました。平宗盛が源仲綱の愛馬「木の下(このした)」を欲しがりました。源仲綱は断りましたが平宗盛は平氏の権勢を傘にして、しつこく要求しました。源頼政に諭されて仲綱は渋々「木の下」を譲りました。しかし、平宗盛はすぐに譲らなかった事が気に入らず、「木の下」の名を「仲綱」と改めて焼印を押し、「仲綱、仲綱」と呼んで引き回したり、鞭打ったりしました。この屈辱と恥辱が、源頼政・仲綱父子に謀反を決意させました。源頼政と謀った以仁王は「最勝親王」と称し、諸国の源氏と大寺社に平氏追討の令旨を下しました。(美濃源氏:源光信、多田源氏:多田行綱、近江源氏:山本義経、甲斐源氏:武田信義、一条忠頼、安田義定、伊豆:源頼朝、陸奥:源義経など)この令旨を伝達する使者には、熊野に隠れ住んでいた源行家(源為義の末子)が起用されました。源行家は八条院の蔵人で、以仁王と近い関係にありました。源行家は令旨の日付と同じ日に京を立ち、諸国を廻りました。この後、この計画は露見して追討を受けます(以仁王の挙兵、源三位頼政の乱)。しかし、これを契機に諸国の反平氏勢力が兵を挙げ、全国的な動乱である「治承・寿永の乱(源平合戦)」が始まります。

次に、クビライがモンゴル帝国第5代皇帝(ハーン)に即位です。クビライは、1215年にチンギス・ハーンの四男トルイの子として生まれました。1251年に兄モンケがハーンの座に就くと、ゴビ砂漠以南の南モンゴル高原・華北における諸軍の指揮権を与えられ、中国方面の領土の征服を委ねられました。1252年には自身が所領とする京兆(唐の長安、現在の西安)を中心とする陝西を出発し、雲南への遠征に向かいました。南宋領を避けてチベットの東部を迂回する難行軍の末に、翌1253年に雲南を支配する大理国を降伏させました。雲南からの帰還後、金の旧都・中都(現在の北京)の北、南モンゴル(現在の内モンゴル自治区)中部のドロン・ノールに幕営(オルド)を移し、後方から江南の南宋や朝鮮半島の高麗征服の総指揮を取りました。クビライは後方のドロン・ノールに腰を据えると、ここに遊牧宮廷の補給基地となる都城の開平府(後の上都)を築き、姚枢ら漢人のブレーンを登用して中国を安定して支配する道を模索しました。しかし、南宋を早急に併合する事を望むモンケはクビライの慎重策に不満を持ち、1256年に南宋戦線を自らの陣頭指揮により行う事を決し、クビライをこの作戦の責任者から更迭しました。1258年、自ら陝西に入って親征を開始したモンケは、河南から四川の南宋領を転戦しましたが、翌1259年に軍中で流行した疫病に罹って病死しました。モンケの急死により、年若い息子達にかわって3人の弟達が後継者となる事になりました。三弟・フレグは遠くのイランで西アジアの征服事業を進めていたため、皇帝位を巡る争いは次弟・クビライと末弟・アリクブケとなりました。アリクブケは首都・カラコルムでモンケの留守を守っており、モンケの重臣達やモンゴル高原以西の諸王・諸部族はアリクブケの支持をしたので、アリクブケが有力な後継者候補に立ちました。一方のクビライは、モンケが死んだとき長江の中流域で転戦していたため、前線の中国に駐留する諸軍団やモンゴル高原東部のモンゴル貴族、王族を味方につける事になりました。1260年、クビライの本拠地ドロン・ノールでクビライ支持派による「クリルタイ」が開かれ、クビライのハーン即位を一方的に宣言しました。アリクブケもこれに対抗してハーン即位を宣言したため、モンゴル帝国はクビライとアリクブケの2人のハーンが並び立つ帝国の南北分裂に発展しました。この内紛で精強な東部の諸部族を味方につけたクビライ側が緒戦の「シトム・ノールの戦い」に勝利し、華北と高原の大半を制覇しました。一方のアリクブケは高原北西部のオイラト部族の援助を受けて、高原中央部のカラコルムを取り戻しました。しかし、中国を押さえるクビライが行った経済封鎖によって、自給のできないカラコルムはたちまち危機に陥りました。1264年、アリクブケは降伏し、クビライが単独の皇帝となりました。即位したクビライは、モンゴル王朝で初めて中国風の元号(中統)を立て、漢人官僚を集めた行政府である「中書省」を新設しました。中書省には六部が置かれて旧来の「尚書省」の機能を兼ねさせ、華北の庶政を取り仕切る最高行政機関としました。続いて軍政を司る「枢密院」、監察を司る「御史台」などの諸機関が相次いで設置され、中国式の政府機関が一通り整備されました。1271年12月18日、国号は漢語で「大元」と改められました。このクビライが後に「元寇」と呼ばれる日本遠征を行う事になります。

その次に、風船爆弾事件です。千葉の気球連隊が母体となり、「ふ」号作戦気球部隊が編制されました。攻撃開始日は、1944年11月3日未明で、3カ所の基地から同時に放球されました。この日が選ばれたのは、明治天皇の誕生日「明治節」であったためです。風船爆弾によるアメリカ側の被害は、翌1945年5月5日、オレゴン州ブライで不発弾に触れたピクニック中の民間人6人(女性1人と子供5人)が爆死しました。アメリカ国民は報道管制のため風船爆弾の存在を知らず、危険を察知できなかったために起こった事件でした。これは、「第二次世界大戦」中にアメリカ本土で日本軍の攻撃により死者がでた唯一の事例となりました。「第二次世界大戦」で用いられた兵器の到達距離としては最長で、史上初めて大陸間を跨いで使用された兵器となりました。

最後に、九州大学生体解剖事件です。1945年5月、九州方面を爆撃するために飛来したアメリカ軍の「B−29」が、熊本県・大分県境で19歳の学徒兵が操縦する戦闘機の空中特攻によって撃墜され、搭乗員のウイリアム・フレドリック少佐ら12名が捕らえられました。東京からの暗号命令で、「東京の捕虜収容所は満員で、情報価値のある機長だけ東京に送れ。後は各軍司令部で処理しろ」により、捕虜の処遇に困った西部軍司令部は、裁判をせずに12名の搭乗員の内、8名を死刑とする事にしました。これを知った九州帝国大学卒で病院詰見習士官・小森卓軍医は、石山福二郎主任外科部長(教授)と共に、8名を生体解剖にする事を軍に提案しました。これを軍が認めたため、8名は九州帝国大学へ引き渡されました。8名の捕虜は収容先が病院であったため健康診断を受けられると思い、「サンキュー」と言って医師に感謝しました。指揮および執刀は石山福二郎主任外科部長でした。軍部は実験対象者の情報について、広島の原爆で死亡したと嘘の報告書を提出しましたが矛盾をつかれ、事件が露呈しました。「GHQ」がこの事件について詳しく調査しました。その後、小森卓軍医は空襲で死亡、石山福二郎教授は自殺しました。この事件で九州大学関係者14人、西部軍関係者11人が逮捕されました。横浜軍事法廷において5名が絞首刑、立ち会った医師18人が有罪となりました。絞首刑となったのは西部軍関係者の佐藤吉直大佐、横山勇中将、九州大学関係者の鳥巣太郎助教授、平尾健一助教授、森好良雄講師です。その後、「朝鮮戦争」が勃発し、米国は対日感情を配慮した事から、恩赦によって減刑されました。犠牲となった搭乗員たちの乗っていた「B−29」が墜落した現場である大分県竹田市には、慰霊碑が建立されています。

今日の誕生日:後藤又兵衛基次、金田一京助、地井武男、Dr.コパ、高久昇(元ザ・テンプターズ)、モト冬樹(元ビジーフォー)、デーブ・スペクター、渋谷哲平、馳浩、工藤公康、佐藤竹善(Sing Like Talking)、高山みなみ(TWO−MIX)、真倉翔、大橋隆志(元聖飢魔II・ジェイル大橋)、ジョン・健・ヌッツォ、森川美穂、渡部篤郎、伊良部秀輝、YOGGY(元EAST END)、中川翔子、サクセスブロッケン、風見志郎(仮面ライダーV3)、山田太郎、野原しんのすけ、ハットリカンゾウ、岬太郎、モンキー・D・ルフィ、丸井ヤング館(元・寺井洋一)、麻里愛、麻里稟、ゴン=フリークス

今日の記念日:端午の節句、こどもの日、おもちゃの日、子供へ本を贈る日、わかめの日、国際助産師の日、ヨーロッパ・デー、手話記念日、自転車の日、薬の日、フットサルの日、レゴの日、ジャグラーの日、ブラジル名古屋交流デー、かみ合わせの日、午後の紅茶の日、巻寿司の日

今日の「今日訓」:本日は、五節句の一つ「端午」です。男子の健やかな成長を祈願し各種の行事を行う日です。また、「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する」という趣旨で制定された「こどもの日」でもあります。「こどもの日」に便乗して「おもちゃの日」、「子供へ本を贈る日」、「わかめの日」となりました。1990年に日本で開催された「国際助産師連盟国際評議会」で制定された「国際助産師の日」、1949年に欧州評議会が創設された事で「ヨーロッパ・デー 」、手話が左右の五本指を使う事から「手話記念日」、5人対5人で行うスポーツである事から「フットサルの日」、5月の「自転車月間」の中の祝日なので「自転車の日」、611年、推古天皇が大和の兎田野で薬草を採取する薬狩りを開催し、毎年この日を「薬日(くすりび)」と定めたため「薬の日」、立春・立夏・立秋・立冬の前日の節分に巻寿司を丸かぶりすると幸福が訪れると言われている事から「巻寿司の日」、「0505:レゴレゴ」の語呂合わせで「レゴの日」、「GOGO!ランプ」の語呂合わせで「ジャグラーの日」、名古屋には約7万5000人のブラジル人が在住しており、国際電話のブラジルの国番号が「55」のため「ブラジル名古屋交流デー」、「5(咬)5(合)」の語呂合わせで「かみ合わせの日」、「5(午)5(後)」の語呂合わせで「午後の紅茶の日」となりました。
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