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2015年05月04日08:51

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あえて9条護憲論

■憲法記念日で各党が談話 自民「改正に全力」
(朝日新聞デジタル - 05月03日 05:49)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=3400661

通常私の日記を読んでくれている人には読み飽きたテーマかもしれないが、あえて9条護憲論を書いておく。

まず改憲論者によるありがちな批判に「9条を守っていれば平和が守れるなんて間違いだ」というものがあるので、簡単に応答しておこう。

9条を読めば分かることだが、9条というのはそもそもそれを守ったからといって何ら平和を担保してくれたりはしない。9条は単に、戦争をはじめとする国際紛争を武力行使や威嚇で解決するな、そのために軍隊を持つな、と命じているだけだ。したがって、9条をいくら守ったところで戦争や国際紛争自体がなくなるわけではない。

だから「9条を守っていれば平和が守れるなんて間違いだ」というのは、指摘自体は正しい。また、もし仮にそのような護憲論を説く者がいるとすれば、それは確かに穴のある立論と言える。

しかし、「9条を守っていれば平和が守れるなんて間違いだ」としても、だからといって9条が役に立たないとか、9条をなくせば平和を守れるようになるという話にはならない。それは戦後の歴史について、仮に9条がなかったとしたら、現実の歴史がそうであったように日本が戦争を避け続けられたかどうかを問えばすぐに分かる。

改憲論者はしばしば戦後の日本の平和を守ってきたのは9条ではなく自衛隊と日米安保だという主張をする。これもおかしな話で、自衛隊が自衛隊であること、そして日米安保が今の姿をとっていることは、9条があったればこそである。9条がないなら、自衛隊は専守防衛の組織ではなく、どこの国にもある軍隊としての「日本軍」であったろう。そして自衛隊が「日本軍」だったなら、日米安保ももっと双務性の強いものになっていただろう。

そのような仮想の日本が、戦後の朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、アフガン・イラク戦争を一人の戦死者も出さずに乗り切れたとは到底思えない。

9条は自衛隊・日米安保への強烈なタガとして立派に機能してきたし、今後も機能しうる条文である。改憲論者は、こうした抑制力としての9条を邪魔に感じているからこそ、9条をなくしたいのである。つまり改憲論者が9条改憲を望んでいるという事実自体が、9条の現実における規範力・規制力を証明しているのだ。

私は9条護憲については1ミリたりとも譲る気はないが、自衛隊・日米安保については現状維持でも構わないと思っている。というか現実を正しく評価するならば、9条・自衛隊・日米安保の3点セットの体制が戦後70年間の平和を結果的に維持してきたのである。そういう実績ある体制をことさら変更する理由はない。

よく改憲論者は「丸腰では国を守れない」と得意満面に主張する。丸腰論者である9条護憲派にはこういう議論も有効だろうが、私はそうではない。攻め込まれたらどうするんだと問われれば、「自衛隊・日米安保で対応すればいい。そのためにあるのだから」とシンプルに答えるだけだ。

9条を認めながら自衛隊・日米安保も認めるなんて論理矛盾だという指摘もあるかもしれない。私は必ずしも論理矛盾とは思わないが、仮に論理矛盾だと認めたとしても、現実の平和が手に入るのなら、論理的一貫性に拘泥するつもりはない。私にとって重要なのは、結果であって理論ではないからだ。

ただ自衛隊・日米安保よりは9条に力点を置いて評価するし、9条という規制を形骸化させ、自衛隊・日米安保を拡大させる動きには断固反対する。

私は心情的には自衛隊・日米安保などなくして、9条のみの丸腰平和国家となっても、改憲論者が心配するような国家的危機など訪れないと思ってはいる。最近ベストセラーになっている『暴力の人類史』において指摘されているように、世界は歴史上かつてないレベルで非暴力的になっているのだ。

しかし、未来永劫攻め込まれないことを論証することなど絶対にできないし、所詮水掛け論である。自衛隊・日米安保を是認することで一部の臆病な人々が安心するなら、まあ妥協点として受け入れてもいいと思っている。

私は断固たる改憲論者を説得したり論破したいとは思っていない。だが、自衛隊・日米安保に妥協できるなら9条を認めてもいいと思っている人々には、その選択もアリだと声を大にして言いたい。教条的護憲派だけが護憲派ではない。現状維持派という名の護憲派でもいいのである。私としては結果的に護憲の選択が得られるなら、教条的でも現状維持でも大歓迎である。
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