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2015年05月04日00:47

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5月4日の日記

今日の出来事:1574年−越前一向一揆:平泉寺の戦い、1584年−沖田畷の戦い、1856年−江戸幕府が築地の講武所に軍艦操練所を設置、1886年−ヘイマーケット事件

今日は、越前一向一揆:平泉寺の戦いです。越前一向一揆は、天正年間に越前国に起きた「一向一揆」です。1573年、織田信長の越前侵攻によって朝倉義景が攻め滅ぼされ、朝倉氏の旧臣の多くが織田信長に降伏して臣従する事で、旧領を安堵されました。織田信長は「朝倉攻め」で道案内役を務めた前波吉継を「越前守護代」に任命し、越前の行政・軍事を担当させました。前波吉継は織田信長から一字「長」を貰い受けて、名前を桂田長俊と改めました。しかし、朝倉氏の中で特に重臣でもない桂田長俊が「守護代」に任命された事を、他の朝倉氏旧臣は快く思いませんでした。特に富田長繁などは桂田長俊と朝倉家臣時代より犬猿の仲であったため、敵視するようになりました。さらに、桂田長俊はこれら元同格の者たちに対して無礼で尊大な態度を取ったため、富田長繁は越前中の村々の有力者と談合し、反桂田の「土一揆」を発生させました。1574年2月10日、富田長繁は自ら一揆衆の大将として出陣し、一乗谷城の攻略に取り掛かりました。城主・桂田長俊はこの時、失明していたため指揮が執れませんでした。一揆軍の兵力は3万以上と大軍で、富田長繁の腹心・毛屋猪介の活躍により桂田長俊は討死しました。桂田長俊の母、妻、息子の新七郎ら一族は城外に逃亡しましたが、翌日に捕縛されて殺害されました(一乗谷城の戦い)。2月12日、一揆軍は信長が府中の旧朝倉土佐守館に置いていた三人の奉行、木下祐久・津田元嘉・三沢秀次を攻めました。しかし、信長に降伏して姓を「安居」と改めて所領を安堵された安居景健(朝倉景健)や朝倉景胤らが間に入って調停をしたため和睦し、三人は越前を出て岐阜に向かいました。2月15日、富田長繁はさらに策謀を巡らし、桂田長俊成敗の宴として旧朝倉家臣・魚住景固を、自らの居城・龍門寺城に招くと、次男・魚住彦四郎と共に謀殺しました。翌日に鳥羽野城を攻めて魚住景固の嫡男・彦三郎を討ち取り、魚住一族を滅亡させました。この富田長繁の行動は、越前国中の人々を不安にさせました。そして、「越前の国主にしてくれるなら恭順する」と、信長とも通じているとの噂まで流れました。旧朝倉家臣の反発を招き、ついに一揆衆は彼と手を切る事にしました。そして、加賀国から「一向一揆」の指導者・七里頼周や杉浦玄任を招いて大将としました。杉浦玄任は坊官ですが、越中で総大将として一揆軍を率いて上杉謙信と戦った武将でした。「尻垂坂の戦い」では上杉謙信に敗れましたが、五福山や日宮城で上杉軍に勝利を収めていました。また、朝倉義景とも戦った事があり、実績は十分でした。一揆衆の中に浄土真宗本願寺派(一向宗)の門徒がいた事で、彼らの意見が通ったのでした。こうして、富田長繁を大将とする「土一揆」は、七里頼周を大将とする「一向一揆」に進展しました。一揆勢は先制攻撃を仕掛けました。3月6日に富田長繁の家臣・増井甚内助が守る片山館、毛屋猪介が守る旧朝倉土佐守館などを攻略して、二人を滅ぼしました。しかし、3月9日に富田長繁は反撃に出ると、帆山河原の一揆勢3万をわずか700の兵で敗走させました。翌3月10日、富田長繁は府中の町衆や一向一揆の指導的立場にある浄土真宗本願寺派(一向宗)と対立する真宗高田派(専修寺派)・真宗三門徒派等と手を結んで、北ノ庄城の奪取を狙って北上しました。七里頼周と杉浦玄任は富田長繁を討つため、北ノ庄方面より集められた一揆勢5万人を差し向けました。そして、両者は浅水の辺りで激突しました。この時、富田長繁軍は一揆衆より兵力では圧倒的に劣勢でしたが奮戦し、一揆勢を敗走させました。勝利した富田長繁でしたが、夕刻には日和見をしていた朝倉景健、朝倉景胤らの寄る砦にも攻撃を仕掛けるなど、冷静な判断力を欠いた行動を取ったため、11日早朝に味方であるはずの小林吉隆に裏切られ、背後から鉄砲で撃たれて死亡しました(長泉寺山の戦い)。その首は、一揆軍の司令官・杉浦玄任の陣に届き、竜沢寺で首実検が行われました。さらに一揆衆の攻撃は勢いを増して、溝江城を落城させました。旧朝倉家臣・溝江景逸と溝江長逸ら一族は舎弟・妙隆寺弁栄、明円坊印海、宗性坊、東前寺英勝および小泉藤左衛門、藤崎内蔵助、市川佐助、富樫泰俊とその子・富樫稙春、天易侍者と共に自害して果てました。長逸の子、溝江長澄は溝江城から脱出しました。朝倉景鏡は朝倉滅亡後、本領を安堵されて信長から一字を貰って名を土橋信鏡と改めていました。5月4日、土橋信鏡は居城である亥山城を捨てて平泉寺に立て籠もりました。しかし、平泉寺は放火されて衆徒は壊滅し、土橋信鏡は逃亡を図りましたが、討死しました。10歳と6歳の子も捕らえられて殺害されました。その後、織田景綱と改めた朝倉景綱の織田城を攻撃しました。織田景綱は奮戦しましたが多勢に無勢であった為、夜陰に乗じて家臣を見捨て、妻子だけを連れて敦賀に逃走しました。こうして、朝倉旧家臣団は「一向一揆」に通じた安居景健、朝倉景胤など以外は滅ぼされ、越前は加賀に続いて「百姓の持ちたる国」となりました。

次に、沖田畷の戦いです。1584年の九州は、龍造寺氏、大友氏、島津氏の三強により、領土が三分された状態でした。龍造寺隆信は佐賀を本拠地として肥前国をはじめ、肥後国半国、筑前国、筑後国、豊前国の一部を領有していました。龍造寺氏は薩摩の島津氏と肥後国を巡って対立していました。龍造寺隆信に従属していた日野江城の有馬晴信が島津義久に内通して挙兵すると、龍造寺軍はこれを攻めました。有馬晴信は島津義久に救援を求めました。島津義久は肥後八代に進出して、弟・島津家久を総大将として軍勢を派遣しました。龍造寺隆信は島津の援軍を警戒した家臣・鍋島直茂の諌めを聞き入れず、6万の軍勢を率いて海路を島原半島北部から上陸し、有馬・島津勢8000余と森岳城付近の沖田畷で対峙しました。龍造寺軍は中央から龍造寺隆信の本隊が、山側を鍋島直茂が、浜側を江上家種が三方から攻め上りました。劣勢の有馬・島津軍は弓、鉄砲の飛び道具を中心に挑発しながら徐々に後退し、これを龍造寺軍が追う展開となりました。しかし、島津軍は“釣り野伏せ”を仕掛けており、攻め急いだ龍造寺軍は気付くと退路を絶たれ、伏兵に包囲されていました。「釣り野伏せ」は島津義久により考案・実践された戦法で、野戦で全軍を三隊に分け、二隊をあらかじめ左右に伏せさせておき、機を見て敵を三方から囲んで包囲殲滅する戦法です。まず、中央の部隊のみが敵に正面から当たり、敗走を装いながら後退します。これが「釣り」であり、敵が追撃するために前進すると、左右両側から伏兵に襲わせます。これが「野伏せ」であり、このとき敗走を装っていた中央の部隊が反転して逆襲に転じる事で三面包囲が完成するという戦法です。島津氏はこの戦法で「木崎原の戦い」、「耳川の戦い」、「沖田畷の戦い」、「戸次川の戦い」などの重要な合戦に勝利し、九州をほぼ統一する事に成功しました。この乱戦の中、総大将・龍造寺隆信が島津軍の川上忠堅に討ち取られてしまいました。龍造寺四天王の5人をはじめ、多数の重臣が討死しました。総大将を失って総崩れとなった龍造寺勢は本拠地の佐賀城に向けて撤退しました。浜側を攻めていた江上家種は配下の執行種兼らを退却中に失いましたが、何とか戦場を脱出しました。山側で島津軍の猿渡信光と戦っていた鍋島直茂は勝ち戦となっていましたが、退却を余儀なくされました。この退却の際、鍋島直茂は7騎余りの絶体絶命の危機に陥りましたが、敵方の有馬軍を脅して海路で筑後柳川へ逃れました。この敗戦によって龍造寺氏の勢力は大きく衰退し、その後の九州は島津氏が勢力を広げていく事になります。こうして、少弐氏の被官から肥前を統一し、九州の3強と呼ばれて、「肥前の熊」と言われた龍造寺隆信は散りました。以下は龍造寺家臣達の動向です。ちなみに「龍造寺四天王」は、四天王と言いながら5人います。
円城寺信胤:龍造寺四天王の一人、島津家久の奇襲によって龍造寺軍が大混乱に陥る中、「我こそは龍造寺山城守隆信なり」と名乗りを上げて敵軍に切り込み、身代わりとなって戦死。
百武賢兼:龍造寺四天王の一人、龍造寺隆信を逃がす為に踏みとどまって勇戦し、討死。
成松信勝:龍造寺四天王の一人、龍造寺隆信戦死の報を受けると、島津軍に切込み戦死。
江里口信常:龍造寺四天王の一人、龍造寺隆信が戦死すると味方と偽って敵陣に乗り込み、敵の総大将・島津家久の首を狙いましたが、島津家久の左足を傷つける程度に終わり、暗殺は失敗しました。江里口信常は、その場で殺されました。島津家久から「無双の剛の者」と賞賛され、一族がいれば召抱えたいと言わしめました。
木下昌直:龍造寺四天王の一人、龍造寺隆信が戦死した後、全軍の殿軍を務めて討死。
龍造寺康房:鍋島直茂の弟、沖田畷で討死。
小河信俊:鍋島直茂の弟、沖田畷で討死。
納富賢嘉:沖田畷で討死。
石井信易:沖田畷で討死。
執行種兼:退却中に、嫡男・種直、二男・種国、三男・信直と共に討死。
神代貴茂:沖田畷合戦後、和議を結ぶとして有馬氏に招かれ、多比良城での宴の後に殺害される。
岡貴明:神代貴茂の弟、岡城主、沖田畷合戦後、有馬勢に攻められ討死。
江上家種:龍造寺隆信の次男、豊臣秀吉の文禄の役にも参加して渡海し、釜山で戦死。
後藤家信:龍造寺隆信の三男、豊臣秀吉の九州征伐に際し参陣、文禄の役と慶長の役に参陣する。
大村純忠:豊臣秀吉の九州征伐に際し、参陣。
鍋島直茂:肥前に何とか帰国後、龍造寺政家を補佐して勢力挽回に努めました。そして事実上の実権を握り、「朝鮮出兵」では龍造寺家臣団を率いて参加しました。「関ヶ原の戦い」では、「伏見城攻め」、「安濃津城攻め」に参加した息子・勝茂を帰国させ、小早川秀包の久留米城を攻略、次いで立花宗茂の柳川城を降伏開城させました。この功により、勝茂を謝罪させて所領安堵となりました。龍造寺氏から鍋島氏への禅譲を受け、勝茂を藩主にすると後見人として藩政を掌握しました。

その次に、江戸幕府が築地の講武所に軍艦操練所を設置です。「黒船来航」後に幕府海軍の建設に乗り出した江戸幕府は、最初の本格的な海軍教育機関として、1855年に「長崎海軍伝習所」を設置しました。長崎に続いて江戸の築地にあった講武所にも海軍教育部門を設ける事にしました。しばらくは「長崎海軍伝習所」と並立していましたが、江戸から遠い長崎に伝習所を維持する財政負担の大きさや、西洋式軍事技術の導入に消極的な井伊直弼の大老就任により、1859年に「長崎海軍伝習所」は閉鎖されました。「軍艦操練所」の教授陣は「長崎海軍伝習所」の卒業生が中心で、小野友五郎や荒井郁之助、肥田浜五郎、佐々倉桐太郎、勝海舟など、ジョン万次郎も教授を務めた時期がありました。「軍艦操練所」はその後、「軍艦所」と改称され、最終的に「海軍所」となりました。1860年には「咸臨丸」による太平洋横断も成し遂げました。

最後に、ヘイマーケット事件です。ヘイマーケット事件は、1886年5月4日にアメリカ合衆国シカゴ市で発生した暴動です。後に国際的な「メーデー」が創設されるきっかけとなった事件です。5月1日、8時間労働制を求める労働者のストライキとデモが発生しました。5月3日、ストライキを行っていた労働者4名が警官により射殺されました。5月4日、シカゴ市内のヘイマーケット広場で抗議集会が開かれました。解散を求める警察側との間で爆発物を使用した衝突が発生し、警察側7名、労働者側4名の死者を出しました。その後、アナーキスト8名が逮捕されました。後の裁判で4名が死刑、残り4名のうち1名が獄中で自殺、3名は後に恩赦により釈放されました。この事件の引き金となった5月1日が、国際的に「メーデー」として設定されました。アメリカでは暴動の記憶を再び呼び起こすとして、9月の第1月曜日を「レイバーデー」として設定しました。

今日の誕生日:藤田東湖、アリス・プレザンス・リデル、笹川良一、森繁久彌、田中角栄(第64・65代内閣総理大臣)、ホスニー・ムバーラク、オードリー・ヘプバーン、仲谷昇、正司花江(かしまし娘・三女)、青山和子、近藤房之助(B.B.クイーンズ)、火坂雅志、菊池桃子、ジャッキー・ジャクソン(元ジャクソン5)、たむらけんじ、大黒将志、光永亮太、谷花音、タニノギムレット、江戸川コナン(工藤新一)

今日の記念日:みどりの日、国際消防士の日、ラムネの日、植物園の日、競艇の日、ファミリーの日、名刺の日、スターウォーズデー、うすいえんどうの日、エメラルドの日、しらすの日

今日の「今日訓」:本日は、「みどりの日」です。1988年〜2006年までは「国民の休日」でしたが、2007年より4月29日が「昭和の日」となったため、「みどりの日」が移動して5月4日となりました。「自然に親しむとともにその恩恵に感謝し、豊かな心を育くむ」ことを趣旨としています。「みどりの日」の制定により、日本植物園協会が「植物園の日」と制定しました。また、「みどりの日」にちなみ「うすいえんどうの日」、5月の誕生石で緑色の連想から「エメラルドの日」、1985年に5月4日が休日(国民の休日)になると決定した時、それにふさわしい愛称を公募し「ファミリーの日」に制定されました。1872年に千葉勝五郎がラムネの製造販売の許可を初めて得て製造した事から「ラムネの日」、競艇の創始者である笹川良一の誕生日から「競艇の日」、5月は全国的にしらす漁が全盛となる旬の時期で、しらすの「し」を4として「しらすの日」、「May4」で「名刺の日」、May the Force be with you」でMay4thとなり「スターウォーズデー」となりました。
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