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2015年05月01日00:33

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5月1日の日記

今日の出来事:280年−呉の皇帝・孫皓が晋に降伏し、晋(西晋)が全国統一、1457年−太田道灌が武蔵国荏原郡桜田郷に江戸城を築城、1557年−大内義長が毛利元就に攻められて自害し、大内氏が滅亡、1952年−血のメーデー事件、2011年−パキスタン郊外のアボッタバードにて米軍が銃撃戦を展開、国際テロ組織アルカイダの指導者ウサーマ・ビン・ラーディンが死亡

今日は、呉の皇帝・孫皓が晋に降伏し、晋(西晋)が全国統一です。後漢末期に曹操に仕えていた司馬懿は曹操の死後、魏の中心人物として諸葛亮との戦いを耐えしのぎました。司馬懿は息子の司馬師・司馬昭と共にクーデターを起こし、対抗勢力である曹爽一派を駆逐し、魏の権力を完全に掌握しました。司馬懿の死後、司馬師、その死後に司馬昭が権力を引き継ぎました。司馬昭は、蜀を滅ぼして晋王となりました。司馬昭の後、その子の司馬炎が後を継ぎ、魏の元帝(曹奐)より禅譲を受けて晋王朝を立てました。そして280年、司馬炎は呉を滅ぼして晋は中国を統一しました。 こうして、三国時代が終了しました。

次に、太田道灌が武蔵国荏原郡桜田郷に江戸城を築城です。江戸の地に最初に根拠地を置いた武家は、江戸重継です。平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての江戸氏の居館が、後の本丸・二ノ丸辺りの台地上に置かれていました。江戸氏が没落した後、扇谷上杉氏の上杉持朝の家臣・太田道灌が江戸城を築城しました。太田道灌は、古河公方と戦うために早急に防御拠点を築かねばならなかったため、武蔵国入間郡に河越城、埼玉郡に岩槻城を築きました。更に古河公方側の有力武将である房総の千葉氏を抑えるため、両勢力の境界である利根川下流域に城を築く必要がありました。太田道灌は、秩父江戸氏の領地であった武蔵国荏原郡桜田郷に江戸城を築城しました。江戸城の守護として日枝神社をはじめ、築土神社や平河天満宮など今に残る多くの神社を江戸城周辺に勧請、造営しました。太田道灌が上杉定正に殺害された後に、江戸城内で戦乱が発生し、太田道灌の後を継いで江戸城主となった嫡男・太田資康が放逐され、上杉定正の所有となりました(江戸城の乱)。その後、上杉定正が急死し、上杉朝良の所有になりました。「立河原の戦い」で敗れた上杉朝良が上杉朝興に家督を譲り、隠居城として用いました。上杉朝興は1524年に「高輪原の戦い」で敗退し、北条氏綱に江戸城を奪われました。それから1590年に「小田原合戦」で開城するまで、北条氏が支配しました。そして、豊臣秀吉の命令で徳川家康が駿府から国替となり、江戸に入城しました。

その次に、大内義長が毛利元就に攻められて自害し、大内氏が滅亡です。「厳島の戦い」により、毛利元就は大内軍の主力である陶晴賢軍を撃破しました。そして、防長経略「周防・長門侵攻作戦」が始まりました。まず、蓮華山城の椙杜隆康を書状で降伏させ、鞍掛山城を攻撃して杉宗珊、杉隆泰親子を討ち取りました。次いで須々万沼城を攻め、山崎興盛・隆次父子を自害させ、江良賢宣は降伏しました。次に陶氏の本拠である富田若山城に向かいました。しかし、城主の陶長房と問田隆盛は、父の晴賢によって殺害された杉重矩の息子・杉重輔により襲撃され、龍文寺にて自害に追い込まれていました。杉重輔は陶派の内藤隆世により、討たれました。これにより、山口の町は炎上しました。その後、毛利元就は右田ヶ岳城の右田隆量と野田長房を降伏させました。これで、大内軍は大内義長と内藤隆世の軍勢のみとなり、高嶺城に籠城しました。しかし、石見の吉見正頼が攻め寄せると山口を放棄して且山城へ逃亡しました。毛利元就は福原貞俊に且山城を包囲させると、大内義長の助命と引き換えに内藤隆世に自刃を迫りました。こうして、且山城は開城して内藤隆世は自刃、大内義長は長福院に入りました。しかし、福原貞俊は長福院を包囲して、大内義長を自害させました。陶晴賢の亡き後を支えた陶氏の忠臣・野上房忠も、陶長房の嫡子・鶴寿丸を殺害した後に自害しました。こうして、大内氏は滅亡しました。大内義長の辞世の句:「誘ふとて 何か恨みん 時きては 嵐のほかに 花もこそ散れ」

最後に、血のメーデー事件です。血のメーデー事件は、1952年5月1日(木曜日)に東京の皇居外苑で発生した、デモ隊と警察部隊とが衝突した騒乱事件です。「GHQ」による占領が解除されて3日後の1952年5月1日、第23回メーデーとなりました。警察予備隊についての「再軍備反対」とともに、「人民広場(皇居前広場)の開放」を決議しました。本来のデモ隊の解散予定であった日比谷公園から北朝鮮旗を翻した朝鮮人を含む一部のデモ隊が、そのまま皇居前広場に乱入するなど暴徒化して混乱は午後5時半頃まで続きました。この日、行進を行ったデモ隊の内、日比谷公園で解散したデモ隊の一部はその中の「全学連」と「左翼系青年団体員」に先導され、朝鮮人、日雇い労務者らの市民およそ2500名がスクラムを組んで日比谷公園正門から出ると、交差点で警察官の阻止を突破して北に向かいました。その途中で外国人(駐留米国軍人)の自動車十数台に投石して窓ガラスを次々に破壊しながら無許可デモ行進を続け、馬場先門を警備中の約30名の警察官による警戒線を突破して、使用許可を受けていなかった皇居前広場になだれ込みました。これに対し、警視庁は各方面予備隊に出動を命じました。乱入したデモ隊は二重橋前付近で警備していた警察官約250名に対し、指揮者の号令で一斉に投石したり、所持していた棍棒、竹槍で執拗な攻撃を繰り返して警察官1名を内堀に突き落としました。他の多くの警察官も負傷する事態になり、警察部隊は止むを得ず後退を始めました。応援の予備隊が到着すると総数は約2500名となりましたが、デモ隊はさらに数を増して約6000名となった上、組織的な攻撃も激しくなりました。警察部隊は催涙弾を使用しましたが効果は上がらず、警察官の負傷者が増加したため、身体・生命の危険を避ける目的で止むを得ず拳銃を発砲しました。これにより、ようやくデモ隊は後退を始めました。この間にもデモ隊は警察官3名を捕え、棍棒で殴打して重傷を負わせて外堀に突き落とし、這い上がろうとする彼らの頭上に投石しました。同時に別のデモ隊は外国人自動車等に棍棒、石ころを投げ、駐車中の外国人自動車十数台を転覆させて火を放ち、炎上させました。デモ隊と警察部隊の双方は激しく衝突して流血の惨事となりました。デモ隊側は死者1名、重軽傷者約200名、警察側は重軽傷者約750名(重傷者約80名が全治3週間以上、軽傷者約670名、さらに1956年1月に頭部打撲の後遺症で1名が死亡)、外国人の負傷者は11名に及びました。その後、デモ隊からは1232名が逮捕され、うち261名が騒擾罪の適用を受けて起訴されました。裁判は検察側と被告人側が鋭く対立したため長期化し、1970年1月28日の東京地裁による一審判決は、騒擾罪の一部成立を言い渡しました。しかし、1972年11月21日の東京高裁による控訴審判決では、騒擾罪の適用を破棄され、16名が暴力行為等の有罪判決を受けた他は無罪を言い渡し、検察側が上告を断念して確定しました。事件発生の5ヵ月後に行われた総選挙では、日本共産党は事件の煽りを受けて全議席を失いました。

今日の誕生日:ルドルフ1世(神聖ローマ帝国初代君主)、濱口雄幸(第27代内閣総理大臣)、北杜夫、吉村昭、阿木燿子、レイ・パーカー・ジュニア、森山泰行、本上まなみ、原沙知絵、坂本美雨、小山慶一郎(NEWS)、サイレンススズカ

今日の記念日:メーデー、日本赤十字社創立記念日、扇の日、水俣病啓発の日、恋がはじまる日、語彙の日、鯉の日

今日の「今日訓」:本日から「皐月」です。「神に供える稲を植える月」という意味で、「さつき」の「さ」は神仏にささげる白米である神稲の事です。メーデー「5月の日」は、世界各地で毎年5月1日に行われる祭典です。夏の訪れを祝う日である一方、労働者が統一して権利要求と国際連帯の活動を行う日でもあります。「労働者の日」とも言います。1877年、佐野常民らが「西南戦争」の負傷者の救護のため、「日本赤十字社」の前身である「博愛社」を設立した事で「日本赤十字社創立記念日」、1956年、熊本県水俣市の保健所へ市内のチッソ附属病院から「原因不明の奇病」の報告があり、これが水俣病が広く知られるきっかけとなった事で「水俣病啓発の日」、「こ(5)い(1)(恋)」の語呂合わせで「 恋がはじまる日」、「源氏物語」で女性が光源氏に扇を贈った事で「こ(5)い(1)(恋)」の語呂合わせで「扇の日」、「ご(5)い(1)」の語呂合わせで「語彙の日」、「こ(5)い(1)」の語呂合わせで「鯉の日」となりました。
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