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2015年04月28日22:49

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国立大に国旗・国歌を要請する「太った豚」たち

■国立大への国旗掲揚・国歌斉唱要請、撤回求め教授ら声明
(朝日新聞デジタル - 04月28日 20:11)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=3394450

そもそも国旗掲揚・国歌斉唱がなぜ必要かについて、ほとんど思考停止としか言いようがないほどお粗末な理由しか存在しない。それはせいぜい、国際的にもそれが常識とか、税金で賄われているのだから当然とか、その程度の理由である。「当然」とか「常識」しか持ち出せないようでは何も説明したことにはならない。

なぜ「当然」なのか、どうして「常識」なのかが問われているのである。こういう「当然」や「常識」に懐疑の精神を向けることがアカデミズムの真骨頂である。

例えばつい先日の東大教養学部の卒業式式辞で教養学部長は次のように述べた。この式辞はネット上でも評判になったので、知っている人も多かろう。

「あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること、この健全な批判精神こそが、文系・理系を問わず、「教養学部」という同じ一つの名前の学部を卒業する皆さんに共通して求められる「教養」というものの本質なのだと、私は思います」

言うまでもなくあらゆることを疑うこと、健全な批判精神を持つことは、「国旗掲揚・国歌斉唱」に対しても同じである。それが「当然」で、「常識」であればあるほど、なおのこと批判的に懐疑の対象とされるべきなのである。

昨年は映画の影響もあってかハンナ・アーレントがブームになったが、思考停止に警鐘を鳴らし、懐疑の精神の重要性を説いたのがアーレントである。アーレントは「悪人」や「悪者」について、次のような言葉を残している。

「私たちが知っている最大の悪人とは、自分のしたことについて思考しないために、自分のしたことを記憶していることのできない人、そして記憶しないために、何をすることも妨げられない人のことなのです」

日本にとって少しでも都合の悪い歴史事実はことごとく忘却し果てる昨今の保守主義者たちは、まさにここに言うところの「記憶しないために、何をすることも妨げられない人」そのものである。同じ国旗と同じ国歌の下で、どのように社会が思考停止を招き、どのような不幸を導いたかについて、「記憶していることのできない人」なのである。

懐疑、思考、記憶、これらは全てアカデミズムの世界では必須不可欠な要素である。あらゆるものを懐疑し、思考の俎上に乗せ、記憶するためには、「自由」であることが絶対に必要なのだ。その時々の権力者が、特定の歴史事実だけを忘却するよう迫ったり、「国旗掲揚・国歌斉唱」など特定の行為にだけは懐疑することを禁じたりするようでは、アカデミズムは成立しない。

学問の自由が失われることは、すなわち批判精神の衰退を意味する。戦前、日本では行政権力による学問の自由の抑圧が猖獗を極めた。大正9年の森戸事件に始まり、昭和3年には左傾教授批判を受けた東大の大森助教授の辞職、昭和5年に同じ理由で山田助教授が辞職、昭和12年に矢内原追放事件が起こり、昭和13年大内兵衛ら3教授・助教授が治安維持法で逮捕、同年河合栄治郎休職処分と続いた。

先の教養学部教授の式辞は、大河内一男東大総長の「肥った豚よりも痩せたソクラテスになれ」という有名な演説を題材にしたものだが、このくだりの背景をなしていたのが大学を追われた河合栄治郎の最終講義である。河合は講義の中で「体ばかり太って魂の痩せた人間を軽蔑する」と説いた。後に東大総長になる大河内一男は、ちょうどこの時期に東大経済学部に奉職していたのである。

学問の自由への弾圧の直接被害者となった河合栄治郎、その背景から生まれた大河内の名演説、その逸話からつむがれた教養学部の卒業式式辞。これらが指し示すのは、学問の自由の重要さであり、懐疑の精神の重要さであり、その反射としての思考停止の危うさである。

「国旗掲揚・国歌斉唱」が「当然」の「常識」であればあるほど、国立大学への要請はふさわしくない。それは思考を停止した「太った豚」だけにできる愚行であると知るべきだ。

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