mixiユーザー(id:1280138)

2015年04月17日19:30

6586 view

彼女達は二度殺された

■3割の女性が「性暴力を受けたことがある」 経験者の声でわかった深刻な被害の実態
(ウートピ - 04月17日 12:00)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=184&from=diary&id=3375891

韓国のように、ワンストップでの対応とか、加害者側にGPSの装着の義務を課した方が良いように思うのだが・・・。

『日本たばこ産業OL逆恨み殺人事件


【事件概要】

  97年4月18日夜、東京・江東区大島の団地内のエレベーターホールで、日本タバコ産業の職員・K子さん(44歳)が殺害されているのが見つかった。
 8日後、船橋市の土木作業員・持田孝(当時54歳)が逮捕される。持田は事件の7年前にK子さんを強姦しており、それを警察に届けられたことを逆恨みしての犯行だった。


持田孝


【被害者の悔しさ・加害者の悔しさ】

 1997年4月18日午後9時半頃、東京・江東区大島の大島6丁目団地1号棟の4階エレベーターホールで、日本タバコ産業の職員・K子さん(44歳)が血まみれで倒れているのが発見された。K子さんは腹部など数ヶ所を刺されており、まもなく死亡した。

 K子さんは午後6時過ぎに渋谷区の同社東京支店を退出した後、渋谷区内で女性問題に関するサークル活動に参加、その後団地に帰宅したところを襲われたらしい。
 現場のエレベーターホールから、団地の内階段、300m離れた新宿線大島駅まで血痕が落ちており、犯人はK子さんともみ合ううちに負傷したと見られた。
 
 26日、船橋市の土木作業員・持田孝(当時54歳)が逮捕された。持田と被害者であるK子さんの間には、お互いに忌まわしい過去があった。

 89年に持田は当時36歳のK子さんを強姦、全治2週間の怪我を負わせていたのである。さらに卑劣なことに、強姦をネタにA子さんに金銭を要求していた。しかし、A子さんが被害を届け出、持田は逮捕され、東京地裁で懲役7年の実刑判決を受けた。
 このことから持田はK子さんを恨み続ける。「警察に言うな」と一方的に約束したが、届けられ捕まったからである。それは筋違いの恨みだった。

 また、持田には76年に女子高生を絞殺、翌年に懲役10年に処せられた前科がある。


【願わぬ再会】

 事件の2ヶ月ほど前、札幌刑務所で服役して出所した持田は特急電車に乗って、まっすぐ東京に向かった。出所2日目には女性宅を探し始め、あらかじめ包丁も購入している。

 4月18日、持田はようやくつきとめた江東区の団地階段の4階と5階の間の踊り場からK子さんの帰りを待っていた。
 午後9時ごろ、帰宅してくるK子さんの姿を確認した持田は急いでエレベーターで1階に降りた。エレベーターが1階に着くと、ドアの前には彼女がいた。持田は降りずに、そのまま2人きりとなった。この時はまだ、K子さんはあの時の強姦犯ということに気づいてはいなかった。

「俺のこと覚えているかい」
 密室の中で持田はそう声をかけた。K子さんはすぐには男の顔を思い出せず、首をかしげていたが、
「7年前のことを覚えているか」
 その言葉に顔は見る見る蒼ざめていった。狭い空間でももみ合いとなり、K子さんは悲鳴をあげながらも、持田の持つ柳刃包丁を一旦は果敢に取り上げている。

 エレベーターが4階に着くと、K子さんは飛び出し、住人に助けを求めた。しかし、どの部屋からも人は出てこなかった。後からわかったことだが、何人かの住人は在宅していて、もちろんK子さんの悲鳴も聞こえてはいたが、あまりに恐怖に満ちていた声だったため、ドアを開ける事ができずにいたという。
 持田はK子さんから包丁を奪い返し、左右の胸や腹部をメッタ刺しにして、またしてもハンドバッグを奪い団地を立ち去った。
 

 持田が逮捕された4月26日、警視庁はこの事件を受けて、再被害を視野に入れた凶悪事件の捜査を全国の警察に指示、再被害の恐れが強いと判断された場合は加害者の出所時期を被害者へ伝える場合もあるとする方針を発表した。


【裁判】

 97年12月4日、東京地裁の被告人質問中の出来事。
 持田は山室恵裁判長の問いに、
「警察に届けないという約束を破ったので、彼女に会って謝ってもらいたかった」
と述べた。
 これに対して、山室裁判長は、
「強姦された女性が警察に届け出たのは当たり前じゃないか!」
と声を荒げた。

 また別の日には弁護人が「被害者側にも落ち度があった」と述べ、傍聴席からは「ふざけるな!」という反発の声があがった。

 99年5月27日、東京地裁・山室裁判長は「筋違いの恨みを抱き、女性を殺害した犯行は、身勝手、理不尽で刑事責任は重い」としながらも、「被告人は人間性の一端が残っており、極刑がやむをえない、とまでは言えない」と持田に無期懲役を言い渡す(求刑は死刑)。検察側は控訴した。

 00年2月28日、東京高裁・仁田陸郎裁判長は「被害を警察に届け出るという当然の行為に対する筋違いの恨みから殺害に至った犯行は理不尽の極みで、動機や計画性、結果、重大性、社会的な影響などを総合的に評価すれば、やむを得ない」と一審を破棄、死刑を言い渡した。
 
 04年10月13日、最高裁・滝井繁男裁判長は「特異な動機による誠に理不尽で身勝手な犯行だ」と上告を棄却。死刑が確定した。

 2008年2月1日、持田の死刑が執行された。65歳。

リンク

≪参考文献≫

恒友出版 「法廷ドキュメント 23の事件と被告たち」 宇野津光緒
社会思想社 「20世紀にっぽん殺人事典」 福田洋 
新潮社 「新潮45 06年10月号」
東京法経学院出版 「明治・大正・昭和・平成 事件犯罪大事典」 事件・犯罪研究会・編』
http://yabusaka.moo.jp/jtol.htm

『死刑囚 鈴木泰徳の極悪非道な殺人事件
福岡3女性連続強盗殺人事件で捕まった鈴木泰徳。判決で正木裁判長は「性的欲求や金銭欲に始まり、人命軽視も甚だしく、身勝手極まりない」と死刑判決が確定。本人は「罪を憎んで人を憎まず」と法廷で発言しました。どんな人物なのでしょうか? 更新日: 2015年01月05日

事件の概要
飯塚事件
2004年12月12日午後11時40分頃、飯塚市の公園で専門学校生の女性(当時18)を強姦したうえ、女性の首をマフラーで絞めて殺害した。さらに財布を奪おうとしたが通行人が現れたため何もとらずに逃走した。

小倉事件
2004年12月31日午前7時頃、北九州市の路上でパート従業員の女性(当時62)の胸や背中を包丁で刺し殺害、約6000円入りの財布などが入ったバッグを奪った。

博多事件
2005年1月18日午前5時半頃、福岡市の公園で会社員の女性(当時23)を強姦しようとしたが、通行人に目撃されることを恐れ断念。女性の腹などを包丁で刺して殺害し、携帯電話や財布(約1000円)が入ったカバン(総額約45000円)を奪った。
http://www.geocities.jp/hyouhakudanna/punish2011.html

三人目の被害者が殺害された大井北公園
出典
koikoi2011.blog.fc2.com

逮捕経緯
2005年3月8日午前1時頃、捜査本部は福岡市で殺害した女性の携帯電話を持っていた鈴木被告を直方市内で見つけ、占有離脱物横領の現行犯で逮捕した。鈴木被告は携帯電話で出会い系サイトを利用していた。犯行を自供した鈴木被告を、3月10日に強盗殺人容疑で逮捕した。
http://www.geocities.jp/hyouhakudanna/punish2011.html

被害者について
2004年12月12日夜、福岡県飯塚市で一人暮らしをしていた三女の奈々さん(当時18歳)が、アパートへ帰る途中、近くの公園に引きずり込まれ、絞殺された。 

奈々さんが難病の膠原(こうげん)病にかかっているとわかったのは、声優になる夢を抱いて島外の高校に進学して間もなくのことだ。入院施設のある養護学校に入り直した。一日80錠の薬の影響で顔は腫れ、大好きだった甘い物も食べられなくなった。
「私は絶対に膠原病を治して、声優になって、重い病気の人を励ましたい」。ある時、そんな決意を明かした奈々さんは04年春、病が癒え、卒業する。だが、仲が良かった難病の男子生徒はその後、亡くなった。

「何でうちの娘を」。傍聴席で、博子さんは叫びたい衝動を何度もこらえた。養護学校を卒業後、手に職をつけるため、飯塚市内の歯科技工士の専門学校に入学した娘は、事件の3週間前に会った時、「今の学校は楽しいけん。ここに来て本当によかった」と笑顔で話していた。クリスマスには思い切りケーキを食べさせてあげたかったのに。
http://blogs.yahoo.co.jp/heartail/57709617.html

福岡市博多区の公園で一月、同市東区原田四丁目の会社員福島啓子さん=当時(23)=が他殺体で見つかった。事件当日、福岡空港の航空機地上支援(ハンドリング)会社に勤めていた福島さんは午前六時半の出勤のため、まだ真っ暗な道を、福岡市東区の自宅から歩いて通勤していた。いつもは自転車通勤だったが、前日北九州市の実家に帰ったため、自転車は勤務先に残したままだった。

耳にはヘッドホンステレオのイヤホン、内容は英会話の教材だった。客室乗務員を目指し、通勤時間を惜しんで勉強をしていたのだろうか。無残な姿で命を奪われた福島さんの足元には、耳から外れてしまったイヤホンが残されていた。

福島さんは北九州市立大時代、講義の合間をぬってアルバイトで学費を稼ぎ、二〇〇二年七月から一年半、北九州市内の航空専門学校に通った。「いつか自分が乗った航空機で家族を海外旅行に連れていきたい」。夢は客室乗務員だった。

卒業後、客室乗務員ではなかったが、福岡空港に勤めるようになり、夢に近づいたことを喜んでいた。「夢を実現するため、将来もう一度勉強します」。親しい友人にはこう話していた。無残にも夢を奪われたのは、その言葉通り、努力を続けていたさなかだった。
http://blogs.yahoo.co.jp/heartail/57709617.html

上告審 最高裁第三小法廷 岡部喜代子裁判長 上告棄却 死刑確定
本件は,被告人が,(1) 平成16年12月12日午後11時40分頃,強盗及び強姦目的で,福岡県飯塚市内の公園前の歩道を通行中の当時18歳の女性を同公園内に引きずり込んで強姦し,さらに自己の犯行が発覚しないように同人を絞殺したが,金品強取の目的を遂げなかった強盗強姦,強盗殺人

同月31日午前7時頃,強盗目的で,北九州市内の公園付近路上を通行中の当時62歳の女性を刺身包丁(刃体の長さ約20.5cm)で突き刺して殺害し,現金等在中の手提げバッグ1個を強取した強盗殺人

平成17年1月18日午前5時30分頃,強盗及び強姦目的で,福岡市内の公園前の歩道上を通行中の当時23歳の女性を同公園内に引きずり込んで強姦しようとしたが,通行人等に目撃されることを恐れて犯行を断念したため姦淫の目的を遂げず,引き続き,殺意をもって,上記刺身包丁で突き刺し,現金等在中の手提げバッグ1個を強取し,上記被害者を殺害した強盗強姦未遂,強盗殺人

被告人は,遊興費等による借金が増えるなどし,これを知った妻から小遣いをもらうことができず,金銭に窮し,性的に欲求不満であったことから,僅か1か月余りの間に,本件各犯行を重ねたもので,自己の犯行の発覚を防ぐなどという余りに身勝手な理由で安易に殺害行為に及ぶなどしており,その動機,経緯に酌量すべき点は認められない。

http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20110614155059.pdf
鈴木泰徳 裁判記録 被告人質問

■飯塚事件
平成16年の12月12日は午後8時ごろ勤務を終え、ホンダアクティで家のある直方に入るか入らないか迷っていましたが、こんなに早く家に帰ったら、借金の取立てのヤクザモンもいるし、妻も起きているだろうから、時間を潰すとともに強姦できる若い女性を探し回ることにしました。

また飲み屋街で一人歩きの若い女性を物色しました。最初は眺めているだけで嬉しかったのですが、ナンパも失敗し、金品は二の次で、とにかく若い女性を強姦したいと考えました。

DNA鑑定でバレないようにするには、膣の中に射精しなければいいだけのことで、イキそうになったらスカートの上に射精して、そのスカートを持ち帰ればいいと思いました。

エロビデオの強姦モノを見過ぎていたので、強姦という行為への抵抗感が薄れていたのかもしれません。わずか3000円の所持金しかなく、ファッションヘルスに行って性欲を満たしたり、美味しいものを食べようといったことを考えた記憶はありません。

若くてそこそこ綺麗な女性がよく、ブスと太った女性は嫌でした。

1分ぐらい車を走らせていると私の方向に、人影が見えたので、スピードを20〜30kmまで減速しました。すれ違った人は、髪型から女性と分かり、生足が見えていました。色白で真面目な学生タイプで、なかなか可愛い子だなあ、高校は卒業しているのだろうと思いました。

被害者は激しく抵抗する様子はなく、首には彼女のマフラーが一重垂れていました。私はセックスを楽しみたい、途中で声を上げられたらたまらないと思ったので、脅しで首を絞めておくことにしました。

被害者がぐったりしているのを見て、私は猥褻行為をしましたが、外に射精するのを失敗してしまいました。
被害者に私の顔を見られたし、まだ死んでおらず、その証言をもとに私の服装や似顔絵でモンタージュ写真を作成されて、その上精液のDNA鑑定が行われれば、私は逮捕されてしまうと焦りました。躊躇はしましたが、迷ったのは10秒ぐらいで、私は殺すしかないと決意しました。

■小倉事件
当時、私は借金で妻と関係がギクシャクしていた上に、借金の取立てで家に帰れない状態だった。妻は私に「一生地獄を見せてやるけんね」とか「死ね」などと言ってきました。

私は飯塚で専門学校生を襲って、首をマフラーで絞めて殺害した事件を起こしてしまい、仕事をしている最中は忘れることができました。ところがテレビなどで事件が報道されると、枕元に被害者の姿が出てきてうなされるようになりました。

私は包丁を顎付近に突きつけて「手を放せ」と言いました。すると被害者は「命だけは助けて」と言いながら、包丁を刃先の部分を掴んできたのです。私は手を放せと何回も言いましたが、被害者は「命だけは助けて」と言いながら掴んだままでした。

「顔を見られたので殺すしかない」と決意しました。そのとき、被害者がバッグを握って逃げ始めたのです。私が刺したので、被害者は力尽きて横になりました。そばにはセイダカアワダチソウが生い茂っていた覚えがあります。

被害者は息遣いこそ荒いものの、まだ生きていたので馬乗りになって背中を何回も刺しました。その場で被害者を仰向けにし、息遣いから虫の息であるのが分かりましたが、「とどめを刺す必要がある」と思い、その後も馬乗りになって背中を刺しました。

被害者はうめき声をあげ、何回も刺しているからか刃先に血がベットリ付き、刃先が体内の骨に当たったのかゴリッという音も聞こえました。

自分の手の傷口がパックリ開いているのが分かりました。その後被害者から奪った手提げかばんを開けると、花形の紋様だったと思いますが、財布を取り、手提げかばんはその後途中の用水路に放り投げました。家に帰ったときは妻も子供も寝ていました。

■博多事件
私は家で妻から一銭も小遣いをもらえず、セックスもさせてもらえませんでした。子供の前でも罵倒されたりするので、家に居辛いから仕事を多く入れるようになりました。性欲のはけ口を求めましたが、風俗に行く金がなく、侘しい、情けない生活を送っていました。このことが原因で3人の女性を連続して殺害する事件を起こしました。

博多事件でも、スケベな気持ちから保冷車にあった刺身包丁を持って、cさんに近づきました。

週刊マガジンを読もうとしたとき黒っぽいスカートを着た若い女性が通りかかるのを見つけました。それが被害者となったcさんでした。歩き方や雰囲気から年齢が若く、痩せてて足が細くて綺麗だなあと思いました。その瞬間、性欲が突き出て『この女を襲って、パンティを持ち帰ろう』とスケベ一色となり、ドアのロックもせず、追いかけていきました。

当時私は自分でセンズリなどをする侘しい生活を送っていました。自分の給料から、手元に11万円を残していたので、そのお金でファッションヘルスに行きましたが時間内に射精できませんでした。

私はカッと頭に血が上り、裏拳で彼女の左顔面を殴りつけました。するとガツンと直撃し、彼女はへなへなとその場に座り込んでしまいました。

私はますます血が上り、仰向けの被害者に馬乗りになって、右手で首を挟んで力いっぱい絞めました。また左手で2回顔面を殴りました。

いよいよ猥褻行為に及ぼうと、仰向けにした被害者に馬乗りになり、地面に持っていた包丁を突き刺しました。そして被害者に対し猥褻行為を行いました。

飯塚事件では強姦して精液を出しているので、これに加えてDNA鑑定でもされたら、犯人が私だとバレてしまい、小倉事件のほうもバレるのではないかと思いました。はっきり顔を見られた以上、殺すしかないと決意しました。それに今まで散々痛めつけたのに私に向かってくる執念が恐ろしく感じ、『こいつ、まだ立ち向かうのか』と鳥肌が立ち、刺身包丁で夢中で被害者を刺しました。
3事件について
私は妻に性交渉も許されず、家を担保として借金をしていた時、私の父親に頭を下げて返済してもらったことがあったのですが、妻は父親に頭を下げませんでした。それに他にも借金はまだあったのです。

私は家庭内の問題で追い詰められていました。私は見栄っ張りなところがあり、友人の前では良い格好するころがありました。よくヘルスに行くようになり、友人にヘルスを奢ってあげたこともあります。

飯塚事件のあと、テレビで被害者の顔写真を見て、犯行当夜のことを思い出し、私の身勝手な欲望のせいでわずか18歳の将来のある女性の命を奪ってしまい、取り返しの付かない大変申し訳ないことをしてしまいました。ところが結局罪の意識が長続きせず、第2第3の犯行に及んでしまいました。

被害者の携帯で、タダで出会い系サイトに繋いでいると、自分の携帯のように思えてきました。出会い系サイトのパスワードに被害者の誕生日を入力したり、cさんの友人に「啓子は死んだ」などのメールを送信することは、悪いこととは思わなかったです。

妻に「人殺しのような目つきしてる」と言われました。
http://www.geocities.jp/waramoon2000/bou_fukuoka_051117.html

弁護士と相談して自分を無期懲役にしてほしいことを話しました。嘘をついて生き残るのかと言われても、無期懲役になって親孝行したり、若い人が自分と同じ間違いをやらないよう指導していきたいです。
出典
傍聴記』
http://matome.naver.jp/odai/2139996688714644101

裁判記録を読んだことがあるが、裁判官が読み上げる被害者の状況が、あまりにも哀れである。

『(1) 飯塚事件について

飯塚事件の被害者は,昭和61年に長崎県内の離島で五人きょうだいの三女として生まれ,地元の小中学校を卒業後,高校に進学するため親元を離れたが,その後,難病に罹患していることが判明した。

被害者は,前記疾患による体の痛みに耐え続けていたほか,毎日80錠にも及ぶ薬を服用し,その副作用により顔がはれて人相までも変わってしまうという高校生の少女にとっては余りにも辛い現実と向き合いながら生活を続けてきたのである。

被害者が,このような辛い闘病生活を乗り切ることができたのは,同人の家族の被害者に対するたゆまぬ愛情と被害者自身に,声優になるという将来の夢を実現するため,生き抜こうとする強い意思があったからにほかならない。

平成15年に入ると,次第に被害者の症状は改善し,同年末には薬の副作用である顔のはれもなくなった。被害者は,声優になりたいという夢を持ち続けていたものの,現実的な職業選択として歯科技工士になろうと考え,平成16年4月に福岡県飯塚市にある専門学校に進学し 一人暮らしを始めた 。

専門学校では非常にまじめに学業に取り組み,成績も優秀であった。わずか18歳の若さで余儀なく生命を奪われ,最愛の父,母,姉,妹,弟などを残し,この世を去らねばならないことはもちろん無念であろうが,特に,被害者が,声優になるという将来の夢を実現するために,多くの苦難に打ち克ち,難病を克服したばかりであり,まさにこれから彼女自身の人生が始まるというときに,被告人の凶行によって余儀なく生命を奪われたことを考えると 被害者の無念さがより大きなものであったことは想像に難くない 。

また,本件被害に遭遇し,突然に後方から口をふさがれて,公園内に引きずり込まれていることからすれば,被害者自身,自らにいかなる事態が生じているのかもわからないほど驚愕していたと考えられる。

その後 被害者は、被告人によって転倒させられた際に後頭部を強打し,意識が薄らいでいるものの 被告人が被害者の首をマフラーで絞めている際には 意識を取り戻し、被告人の身体を遠ざけようと抵抗しているのである。

被告人によって首をマフラーで絞められている際に被害者が感じたであろう肉体的苦痛が大きかったことはもとより,徐々に遠ざかっていく意識の中で同人が感じたであろう恐怖感や絶望感は筆舌に尽くし難い。』

『(3) 博多事件

博多事件の被害者は,昭和56年に出生し,両親の愛情を一身に受けながら成長して,大学在学中には,将来航空会社の客室乗務員になりたいと考えるようになった。

被害者は,大学卒業と同時に客室乗務員になることはできなかったものの,航空機の誘導等を業務とする会社に就職し,仕事をしながら,客室乗務員になるための勉強を続けていた。

被害者は,本件被害に遭遇した当時23歳の若さであり,客室乗務員になるという目標を目指し,日夜努力を続けていたときに被告人の凶行に遭い,余儀なく生命を奪われたのである。

被害者は,その夢を奪われ,今後の人生において待っていたであろう愉しみをもすべて奪われ,最愛の父母を残して,この世を去らなければならなかったのであり,その無念さは察するに余りある。

また,本件被害に遭遇し,突然に後方から口をふさがれて,いきなり包丁を突きつけられた際の被害者の恐怖感,被告人から執ように顔面を殴打された際の肉体的苦痛は大きかったものと考えられる。

さらに,被告人からわいせつ行為をされるなどした際に被害者が感じたであろう屈辱感も多大なものがあったと思われる。被害者は,これだけの苦痛を受けたにもかかわらず,その正義感からだと思われるが,なおも被告人に対し向かっていこうとする姿勢を示したために,被告人によって殺害される結果となっているのであって,余りに理不尽である。

被害者が,被告人から本件包丁で刺突された際に感じたであろう肉体的苦痛が甚大であることは言うまでもないが,刺突された後,絶命するまでの間,被害者が,徐々に遠ざかっていく意識の中で感じたであろう絶望感は筆舌に尽くし難い。』
http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/251/034251_hanrei.pdf

判例参考HP
http://koikoi2011.blog.fc2.com/blog-entry-405.html
1 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する