mixiユーザー(id:336558)

2015年04月16日05:50

285 view

名言は教えてくれない「生きる意味」

教科書は教えてくれない「生きる意味」についての名言
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=101&from=diary&id=3372300

ある日突然、居眠りから目が覚めたときに
自分が行き先の分からない電車に
乗せられていることに気づいたら、
普通は不安に感じることだろう。

自分は、どこからこの電車に乗ったのか。
この電車はどこへ行こうとしているのか。
このまま乗っていても大丈夫なのだろうか。
知りたいと思うのが自然な感情というものだろう。

まあ、不安から目を背けて
ミステリーツアーを楽しもうぜ、というのも
たまのお遊びとしてはアリかも知れないが、
人生を捧げ、命を賭けて良いような話ではない。

私たちは、どこから来たのか。
そしてどこへ行くのか。

この問いの答をまず抑えようとせずに

「私たちが<いま・ここ>に
生きて生かされて在るのは
一体どういう意味があるのか」

という話を語ってみたところで、
それはいかに美辞麗句を操ろうとも
結局は空疎なおしゃべりに堕するだろう。

つまり、いまの自分の人生が始まる「前」と
人生が終わった「後」を切り離した
「現世だけの人生」だけをいくら見つめても、
そこから大して深い意味を汲み取ることはできない。

命というものはいわば、リレーのタスキのように、
過去から未来へと繋がっていくものだからである。

人生を語るならば最低限、
過去・現在・未来の三世を
きちんと弁えた上で話すべきだということである。
もちろんこれは、宗教の領分に属する。

たとえば仏教では、
私たちは過去に動物だったり人間だったり
あるいは罪を犯して地獄に落ちたりと
さまざまな姿で何度も生と死を繰り返しては
輪廻転生を味わってきており、
それらの過去の紆余曲折はすべて
娑婆世界(太陽系地球)に人間として
生まれてくるための前振りだったのであり、
この星・この時代で、人間として生き、
やがて仏法にめぐりあい、
修行して仏となっていくことこそが
<いま・ここ>に生かされている意味だと考える。

国家神道とオウムショックの後遺症で
宗教アレルギーと化した現代日本人らしく
宗教性を意図的に必死に排除して
ただ意識高い系の「偉人の名言」を
切り出して並べてみたところで、
そこに私たちの人生のほんとうの安心はない。

「偉人の名言」だって、
それぞれ宗教的な背景があるのだ。
そこをきちんと知ろうとしないで、
耳障りの良い表面だけなぞるのは、
非常に危険である。


「生きる意味」を正面から突き詰め、
哲学・思想を広く渉猟すれば、
結局は宗教の必要性に行き着く。

そもそも一切の哲学・思想は、
宗教から派生したものだからである。

ヒトが宗教を持つようになった起源は、
ネアンデルタール人が
「死」というものを強く意識するようになって、
「死者の埋葬」を始めたことに由来する。

仲間の「死」を機縁として、
自分もまたいつかは必ず
死すべき存在であることに気づき、
この世界のあらゆるものには
「生」と「死」があることに気づき、
そこからヒトは、生への感謝と死への恐怖と、
<いま・ここ>に生きる意味を
考えるようになったのだ。

宗教を持って生きることが、
ヒトという生物種にとっての「自然」である。

ヒトとして生きる意味に思いを馳せるならば、
すべからく、ヒトとしての原点に
立ち返るのでなければならない。

9 1

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する