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2015年04月10日20:53

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善知識・悪知識

宗祖日蓮大聖人『三三蔵祈雨事』に曰く、

「木をうへ候には、大風ふき候へどもつよきすけをかひぬれば たうれず。
本より生(お)ひて候木なれども、根の弱きはたうれぬ。甲斐無き者なれども、たすくる者強ければたうれず。
すこし健(けなげ)の者も独りなれば悪しきみちにはたうれぬ。」

(植えた木であっても、しっかり添え木をすれば
たとえ強風が吹いたところで倒れることはない。

自然に生えている木でも、
根が弱ければ倒れてしまうのである。

力の足りない者でも、支える人が強ければ
倒れることはない。

多少しっかりした者でも、孤立無援だと
悪い方向へ倒れこんでしまうものだ。)


この御文は、特に親子関係に限定して
述べられているわけではないのですが、
特に、子育てをしている親にとっては
本当に耳が痛くなる御金言ですね。

また曰く、

「阿闍世王(あじゃせおう)・あうくつまら なんど申せし悪人どもは、いかにもかなうまじくて必ず阿鼻(あび)地獄に堕(お)つべかりしかども、教主釈尊と申す大人にゆきあわせ給ひてこそ、仏にはならせ給ひしか。

されば仏になるみちは善知識にはすぎず。わがちゑなににかせん。たゞあつきつめたきばかりの智慧だにもならば、善知識たひせちなり。


(阿闍世王(あじゃせおう)や
鴦掘摩羅(おうくつまら)などという悪人は
どうにも救われ難い者で
必ず無間地獄に堕ちるところだったが、
教主釈尊という大人(だいにん)に
めぐり会ったことから、悪道を免れて
仏に成ることすらできたわけである。

だから、仏に成るには
「善知識」(正しいことを教えてくれる師匠や友人)
と親しむのが、一番の近道である。

自分個人の智慧だけでは、限界がある。

自分個人の智慧として必要なのは、
たとえばある物が「熱いか、冷たいか」を
あるがままに判断できる程度の最低限の感覚を
しっかり持っておればそれで十分なのであって、
「悪知識」(間違った方向に自分を導く悪友)
を遠ざけ、「善知識」に親しむことこそが
何よりも大切なのである。)


だいたい人間というのは、
ラクな方へラクな方へ、
悪いほうへ悪いほうへと
流されてしまいがちなものです。

特に子どもなんかはそうで、
親は背中さえ見せておれば
我が子は勝手に自分を見習って
育ってくれるものかと思いきや、

いつの間にやら子どもは
あさっての方向を見ていて、
そっちに流されている、なんてのも
往々にしてあることですよね。

我が子の「善知識」となっていけるよう、
子どもとの信頼関係を
しっかり保っていきたいものだと
改めて心に深く感じた次第であります。
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