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2015年03月25日10:34

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批評と体験と創作の三角関係

今朝方、目が覚めて、起きる前にTwitterに書いたことを、少し変更して転載。

●時折、批評について訊かれることがある。私も、以前、『図書新聞』や『読書人』などの批評紙に、また1970年代は『映画批評』に、最近なら『映画芸術』に、文学の批評や映画批評あるいは批評もどきは書いてきたことがあり、小林秀雄その他、過去の文学批評などは読むことも少なくないが、自分に関していえば、批評とは関心がズレているかもしれない。つまり批評よりも理論の方への関心の方が強く、検分よりも創作への関心の方が強い。
●文芸批評だろうが映画批評その他、何の批評であれ批評はジャーナリズムの範疇だとすれば、私はジャーナリズムそのものには、あまり興味がない。あえていえば、ジャーナリズムとは、読者の声の代弁のようなところがあるとすれば、私自身は、むしろ作家の方にこそ興味がある。思想もまた、理論家という思想の作家がいる。
●むろん批評を無視するわけではなく、シラーがいうような素朴に対するものとしての、またボードレールがいうような問題意識としての批評意識は重要だと思う。哲学ではカントあたりが、このような近代の批評意識の哲学的表現者だが、批評意識の欠落した理論にはデマゴギーへの落とし穴が待っていよう。
●デマゴギーとは、その良質のものを好意的に理解すれば想像力による理論とでもいえよう。例えば、カントに対するヘーゲルがそうだ。ヘーゲルの哲学はカントからすればデマゴギーになるだろう。カントが不可知だといったものをヘーゲルは理性だと断言しているのだから。むろんヘーゲルは確信犯でもある。
●カントの批評性に対するヘーゲルの確信犯的なデマゴギー性は『精神現象学』を読み、その意図を判読すれば分かる。つまり、ヘーゲルは論理学の前に、なぜ、その予備学として精神現象学を書かなければならなかったかということだ。
●保田与重郎と同じような日本浪曼派の圏域にあるとされる蓮田善明だが、イロニーの保田と、イロニーではない蓮田の違いは、批評家である保田と、そうでない蓮田の違いといえる。そのあたりの蓮田の消息は、批評と創作をめぐる、蓮田の古今和歌集論を読めばいいだろう。
●批評重視の創作ということではなく、批評そのものを創作とすることもある。分かりやすい例がダダイズムだろう。ダダイズムの面白さと、ある意味では先験的な失敗性は、そこにあるのだと思う。ダダイズムに対して創作にウエイトを置いて現れたのがシュルレアリズムなのだともいえる。
●ディルタイに『体験と創作』という著書があり、ゲーテやヘルダーリン、ノヴァーリスその他をとりあげているが、ボードレール的に批評と創作ということを考えれば、創作に対する体験と批評の関係も無視しえないだろう。このあたりに関連して、カール・H・ボーラーが解析したようなエルンスト・ユンガーの表現は、ボーラーの解析を越えて面白い。

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