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2015年03月14日09:43

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Osho


osho

マインドは、いつも「今ここ」というポイントを取り逃がす。

それはひとつの極から別の極・・過去または未来・・へと移ってゆき、

私たちは、ゆらめく過去と未来のはざまにある現実を取り逃がす。

現実は今ここにある。

それは決して過去でもなければ未来でもない。

それは常に現在だ。

「今」こそが唯一の瞬間であり、「今」こそが唯一の時間だ。

それは決して過ぎ去ることがない。

「今」が永遠だ。

それは常に「ここ」にある。
だが、私たちはここにいない。
精神霊的な探究者であるというのは「ここ」にいるということだ。
それを瞑想と呼んでもいい、ヨーガと呼んでもいい、祈りと呼んでもいい。
マインドとは、過去や未来があって初めて存在するものであり、それらがなければ、存在しない。

私は昨日ある人に「人は現在のなかでは考えることができない」と話していた。
考えると、たちまちそれは過去になっている。

だから、マインドは現在のなかに存在できない。

それは過去の記憶や未来の投影のなかにしか存在しない。
それは決して現在に触れることがない。
マインドは触れることができない。
そんなことは不可能だ。
だから、思考がなければ、マインドは存在しない。

このノーマインド(無心)の境地が瞑想だ。
そのときあなたは今ここにいる。

するとあなたは実在のなかへと爆発し、実在があなたのなかで爆発する。
精神霊的な探究とは、モクシャ(解脱)、死後の救済を求めることではない。
それもまた欲望であり、富、名声、権力を求める欲望よりもさらに貪欲だ。
モクシャを求める欲望の方がよりいっそう貪欲だ。
なぜなら、それは死さえも超えるからだ。

精神霊的な探究とは、神を捜し求めることではない。

それもまた貪欲だからだ。
神を捜しているとすれば、あなたのマインドはまたもや貪欲になっている。
あなたは何かを得るために神を捜しているにちがいない。
いかに無意識の深みにあって気づかなくても、
あなたは何かを得るために神を捜しているにちがいない。
とはいえ、私は精神霊的な探究が成就すれば神は存在しなくなると言っているわけではない。
モクシャはそこにある。
あなたは解放されている。
だが、それは欲望ではない。
それは実在をあるがままに知った結果だ。
神はそこにいるが、あなたの欲望ゆえに存在しているのではない。

神は実在だ。

それゆえに、実在を知れば、それが神的なものであることがわかる。
実在は神々しい。
精神霊的な探究とは、神や解脱や至福を捜し求めることではない。
なぜなら、欲望がある限り、あなたは再び未来を思い描かずにはいられないからだ。
精神霊的な探究とは未来への幻想を落とし、現在に留まること、
現在にあること、何であれ来るものに今ここで直面できる用意を整えることだ。

神性が炸裂し、自由が訪れる。

だが、こういったものはもくろむものではない。
それらは実在を自覚することによって影のようについてくる。

まず生とその欲求不満のプロセスに余さず気づきなさい。

一片の幻想もそこにあってはならない。
さもなければ、あなたはそれにとらわれてしまう。
生の体験のひとつひとつに深く入ってゆきなさい。
生から逃げ出してはならない。
生を深く知れば、それが幻滅を与えるものであることがわかる。
逃げだしてはならない。
放棄してはならない。

そうして初めて、この否定的な部分は完結され、今ここにジャンプすることができる。

未来こそ人間のマインドが生み出したあらゆるたわごとの

根本原因であることに気づいたら、あなたは基本的な一歩を踏み出したことになる。

あなたは旅をしてきた。

今のあなたには、「あるがままのもの」に気づく用意ができている。

最初の部分、否定的な部分においては、生が大いに助けになる。


だから、あらゆる体験、あらゆる欲望のなかに深く入っていって、それを知り尽くしなさい。



早まった放棄は決してしてはならない。



♡♡♡♡♡♡♡♡


難しいな…
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