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2015年03月08日00:55

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3月8日の日記

今日の出来事:1562年−上郷城の戦い、1865年−権現原事件、1868年−堺事件、1935年−忠犬ハチ公が渋谷駅前で衰弱死、2000年−営団日比谷線脱線衝突事故

今日は、上郷城の戦いです。1562年2月18日、松平元康(後の徳川家康)は尾張・清洲城の織田信長と同盟「清洲同盟」を結びました。これにより、駿府で今川氏真の人質となっていた妻子の身を案じた松平元康は、三河・上郷城を攻めました。上郷城は、今川氏の縁戚(今川義元の妹が生母)にあたる鵜殿長照が守っていました。3月8日、松平元康は上郷城を攻め落として鵜殿長照を討ち取り、子・氏長と氏次を捕らえました。松平元康は、駿河で人質となっていた妻・築山殿、嫡男・松平信康、長女・亀姫との交換に利用しました。こうして松平元康は、妻子を今川家から取り戻す事に成功しました。

次に、権現原事件です。長州藩内戦「大田・絵堂の戦い」で高杉晋作ら「正義派」は、椋梨藤太ら「俗論派」に勝利しました。山田宇右衛門ら中立の「鎮静派」は、「俗論派」を退けるように藩主の毛利敬親・定広父子に進言しました。これを受け入れて「俗論派」を解任しました。この報が正義派諸隊に伝わると、兵を引き上げて山口に割拠しました。3月6日、「鎮静派」の代表として桜井三木三、香川半介、冷泉五郎、江木清次郎を山口の諸隊陣営に派遣しました。その帰路の3月8日の夜、明木権現原で選鋒隊士・児玉久吉郎、中井栄次郎、木村松之進、冷泉太郎兵衛、小倉半左衛門、南新三郎、小川八十槌、力士隊士・峰吉らに襲撃されました。桜井三木三、香川半介、冷泉五郎は殺害され、江木清次郎のみが刺客から逃げ延びる事が出来ました。この暗殺は正義派(諸隊)ではという噂が拡がりました。正義派(諸隊)は疑いを晴らそうと、萩を囲みました。その後、「俗論派」が萩を脱出しました。そして、捕えられていた波多野金吾(後の広沢真臣)を牢から出しました。その後、暗殺団の8人のうち力士隊士・峰吉を除く7名が切腹しました。このうち、中井栄次郎は恭順派・椋梨藤太の次男でした。その後、椋梨藤太ら「俗論派」は、捕らえられて萩に護送されました。椋梨藤太は死罪、中川宇右衛門は切腹、小倉五右衛門、岡本吉之進、山県与一は自決しました。こうして、正義派が政権を掌握しました。桂小五郎が「禁門の変」の後に潜伏していた但馬国出石から帰って来ると、長州の藩論は再び、尊王攘夷・倒幕路線に統一されました。

その次に、堺事件です。堺事件は1868年3月8日に和泉国堺町内で起きた、土佐藩士によるフランス帝国水兵殺傷(攘夷)事件です。1868年3月8日午後3時頃、フランス海軍のコルベット艦「デュプレクス」は、駐兵庫フランス副領事M・ヴィヨーと臨時支那日本艦隊司令官・ロアら一行を迎えるために堺港に入り、同時に港内の測量を行いました。この間、士官以下数十名のフランス水兵が上陸し、市内を徘徊しました。夕刻、土佐藩軍艦府の命を受けた八番隊警備隊長・箕浦猪之吉、六番隊警備隊長・西村佐平次らは、仏水兵を帰艦させようとしましたが言葉が通じませんでした。このため、土佐藩兵は仏水兵を連行しようとしました。仏水兵は土佐藩の隊旗を倒伏して逃亡しようとしたため、土佐藩兵は咄嗟に発砲して仏水兵を射殺、または海に落として溺死させるなど傷を負わせました。土佐藩では、フランス人が迷惑不遜行為に及んだための処置であるとしました。死亡した仏水兵は、20歳〜28歳で以下の11人です。シャルル・P・アンドレ・M・ギヨン、ガブリエル・マリ・ルムール、ヴィクトル・グリュナンヴェルジェ、オーギュスト・ルイ・ランジュネ、ラザル・マルク・ボベス、ピエール・マリ・モデスト、アルセーヌ・フロミロン・ユメ、ジャン・マチュラン・ヌアール、ジャック・ラヴィ、ヴァンサン・ブラール、フランソア・デジレ・コンデットです。殺害された仏水兵11名は神戸居留地外人墓地に、駐日仏公使レオン・ロッシュ、駐日イギリス公使ハリー・パークス、オランダ公使ら在阪外交官立会いのもとに埋葬されました。ロッシュは悲哀を込めた弔文を読み上げましたが、それには「補償は一層公正であり、少しも厳しくないことはないであろう。私はフランスと皇帝の名において諸君に誓う。諸君の死の報復は、今後われわれ、わが戦友、わが市民が、諸君の犠牲になったような残虐から免れると希望できる方法で行われるであろう」という、復讐を誓った激烈な一文でした。土佐藩の山内容堂は2月19日早朝、京の土佐藩邸に滞在していた英公使館員アルジャーノン・ミットフォードに、藩士処罰の意向を仏公使に伝えるように依頼しました。この伝言は淀川を下り、夕刻には大坂へ戻ったミットフォードにより、兵庫に滞在する仏公使・ロッシュに伝えられました。ロッシュは、在坂各国公使と話し合い、下手人斬刑・陳謝・賠償などの5箇条からなる抗議書を日本側に提示しました。当時、各国公使と軍艦は「神戸事件」の影響で和泉国・摂津国の間にありました。一方、明治政府の主力軍は「戊辰戦争」のために関東に下向するなどしており、戦端が開かれれば敗北は必至でした。明治政府は憂慮し、英公使・パークスに調停を求めましたが失敗しました。2月22日、明治政府はやむなく賠償金15万ドルの支払いと発砲した者の処刑などすべての主張を受け入れました。これは、当時の国力の差は歴然としており、この状況下で要求を受け入れざるを得なかったものでした。土佐藩は警備隊長・箕浦猪之吉、西村佐平次以下全員を吟味し、隊士29名が発砲を認めました。一方、朝廷の岩倉具視、三条実美らは、フランスの要求は無理難題が多く、隊士すべてを処罰すると国内世論が攘夷に沸騰する事を懸念し、処罰する者の数を減らすように要求しました。結局、政府代表の外国事務局輔・東久世通禧らがフランス側と交渉し、隊士全員を処罰せずに隊長以下20人を処罰する事、処刑の時間や場所などをまとめました。まず、隊長の箕浦猪之吉、西村佐平次、隊小頭の池上弥三吉、大石甚吉の4名の指揮官が責任を取っての死刑が決定しました。残る隊士16名を事件に関わった者として選ぶ事となり、現在の大阪府大阪市西区にある土佐稲荷神社で籤を引いて決めました。こうして選ばれたのが、杉本広五郎、勝賀瀬三六、山本哲助、森本茂吉、北代堅助、稲田貫之丞、柳瀬常七、橋詰愛平、川谷銀太郎、金田時治、竹内民五郎、岡崎栄兵衛、土居八之助、横田辰五郎、垣内徳太郎、武内弥三郎でした。3月16日、大阪裁判所の宣告により、堺の妙国寺で土佐藩士20人の刑の執行が行われました。切腹の場で藩士達は自らの腸を掴み出し、居並ぶフランス水兵に次々と投げつけるという行為を行いました。その凄惨さに、立ち会っていたフランス軍艦長のアベル・デュプティ=トゥアールは、フランス人の被害者数と同じ11人(箕浦猪之吉〜柳瀬常七)が切腹したところで、外国局判事・五代友厚に中止を要請しました。この形での処刑では、フランス側が望む戒めにならず、逆に侍が英雄視される事になると理解して中断させました。こうして、9人(橋詰愛平〜武内弥三郎)が助命されました。

最後に、忠犬ハチ公が渋谷駅前で衰弱死です。現在、渋谷駅のシンボルともなっている、涙なしでは語れない秋田犬の「ハチ公」様が亡くなられた日です。ハチは1923年11月10日、秋田県北秋田郡二井田村(現・大館市)大子内の斉藤義一宅で誕生しました。東京帝国大学農学部で教授を務めていた上野英三郎は、秋田犬の仔犬を飼いたいとの希望がありました。ハチは世間瀬という人物によって上野英三郎のもとへ届けられる事になりました。ハチの価格は30円で、生後間もない1924年1月14日、米俵に入れられて大館駅を出発し、20時間の移動後に東京の上野駅に到着しました。上野英三郎の居宅は、東京府豊多摩郡渋谷町大字中渋谷字大向834番地(現在の渋谷区松濤一丁目付近)にありました。ハチは毎日、玄関先や門の前で「御主人様」を見送り、渋谷駅まで「御主人様」を迎えに行きました。ところが、ハチを飼い始めて1年余りが経った1925年5月21日、御主人様・上野英三郎は農学部教授会会議中に脳溢血で倒れ、急死してしまいました。ハチはいくら待っても帰って来ない主人の事を憂い、この後3日間は何も食べませんでした。25日には上野英三郎の通夜が行われましたが、その日もハチは渋谷駅まで迎えに行っていました。ハチは毎日時間になると帰って来るはずのない、御主人様を迎えに渋谷駅で待ち続けました。雨の日も風の日も、毎日現れるハチに人々は「バカ犬」として虐待や迫害を繰り返しました。1932年、故主を迎えに渋谷駅に通うハチを知っていた日本犬保存会初代会長・斎藤弘吉は、渋谷駅周辺で邪険に扱われているハチを哀れんで、ハチの話を新聞に寄稿しました。これは、東京朝日新聞に「いとしや老犬物語」として掲載され、人々の同情を呼びました。翌1933年にも新聞報道されて、さらに広く知られるようになると一躍人気者となり「ハチ公」と呼ばれるようになりました。ハチを虐めていた人々もハチをかわいがりだしました。ハチに食べ物を持参する者も多く現れるようになり、渋谷駅もハチが寝泊まりする事を許可しました。ハチ公の美談に感動した帝展彫刻審査委員も務める彫塑家・安藤照は、かねてより知り合いであった斎藤弘吉にハチの銅像を作りたい希望を伝えました。この結果、日本犬保存会からの依頼による安藤照作のハチ公像が作成される事となりました。1934年1月に「忠犬ハチ公銅像建設趣意書」が作られて、銅像建設の募金が始まりました。日本犬保存会が発起した資金集めには、鉄道諸官庁も後援しました。4月21日、渋谷駅前に安藤照によりハチ公像が設置されました。盛大に行われた銅像の除幕式には、ハチ自身と300人もの著名人が参加しました。この翌年の1935年3月8日、10年間も御主人様を待ち続けたハチはついに力尽きました。遺体は、ハチが普段は行かない渋谷駅の反対側で発見されました。渋谷駅ではハチの告別式が盛大に行われ、故主・上野の妻・八重、駅や町内の人々が多数参列しました。また、妙祐寺の僧侶による読経も行われるなど、人間さながらの葬儀が執り行われました。御主人様と同じ青山霊園に葬られました。遺体は剥製となり、上野の国立科学博物館に安置されています。

今日の誕生日:北畠親房、高村光雲、松井須磨子、水上勉、水木しげる、高木ブー(ザ・ドリフターズ)、宮尾すすむ、はらたいら、ランディ・マイズナー(元イーグルス)、篠ひろ子、鮎川いずみ、大沢在昌、佳那晃子、堀江美都子、しげの秀一、江川達也、三宅伸治(ザ・タイマーズ)、反町康治、円谷浩、平松愛理、大橋秀行、角田光代、松本キック(松本ハウス)、藤井謙二(元MY LITTLE LOVER)、桜井和寿(MR.CHILDREN)、旭鷲山昇、須藤元気、藤川優里、山崎裕太、水野裕子、彰(UVERworld)、渡部豪太、斉藤麻衣(元美少女クラブ31)、佐武宇綺(9nine)、松井珠理奈(SKE48、AKB48)、山口乃々華(E−girls)、渡邊璃生(ベイビーレイズ)、鏡竜太郎、ベガ

今日の記念日:国際女性デー、みつばちの日、みやげの日、エスカレーターの日、サワークリームの日、 三矢の日、 三板(サンバ)の日、雅の日、鯖すしの日、 さやえんどうの日、散髪の日、赤ちゃん&こども「カット」の日、ビールサーバーの日、母子と助産師の日

今日の「今日訓」:本日は、1904年にニューヨークで女性労働者が婦人参政権を要求してデモを起こした事で「国際女性デー」、1914年に東京・上野の大正博覧会の会場に日本初のエスカレーターが設置された事で「エスカレーターの日」、「みつ(3)ばち(8)」の語呂合わせで「みつばちの日」、「み(3)や(8)げ」の語呂合わせで「みやげの日」、「サ(3)ワー(8)」の語呂合わせで「サワークリームの日」、「三(3)矢(8)」の語呂合わせで「三矢の日」、サン(3)バ(8)の語呂合わせで琉球楽器「三板(サンバ)の日」、「み(3)8(やび)」の語呂合わせで「雅の日」、「サ(3)バ(8)」の語呂合わせで「鯖すしの日」、「さ(3)や(8)」の語呂合わせで「さやえんどうの日」、「散(3)髪(8)」の語呂合わせで「散髪の日」、「赤ちゃん&こども「カット」の日」、サー(3)バー(8)の語呂合わせで「ビールサーバーの日」、「さん(3)ば(8)」の語呂合わせで「母子と助産師の日」となりました。
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