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2015年03月03日01:11

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批判的思考の実践(思考の垂れ流し)

先日、「性格良い女子は、悪いことの基準をしっかり持ってて、それをしない、関わらない、上手に断る」とつぶやいて、100イイネを余裕で超えたので、じゃあ善悪の判断ってどう考えるのかと思い至り、考えを文章化してみた。

それ以外に、残虐な事件のニュースであったが故に、遺族の悲しみとかの想像に気が回らず、犯人への道義的批判を繰り返していた自分の未熟さに気づき、克己しようかなという自己批判とクールダウンも目的だったりする。

一石二鳥で合理性高い思考だ( ´ ▽ ` )ノ
(読む人がいたら理解しにくい文章かも)



最近はバートランド・ラッセルの本を読んでいる。とても合理的で否定できないロジックで「知の巨匠」の異名も納得という大天才だ。

まぁ、彼の考え方を理解すればするほど自己嫌悪になる。だって、非の打ち所がない正論なだけに、自分にできていない点があれば、自分の未熟さや無能さが浮き彫りになる。

「嫌いな自分」が間違っているのを自分で認めるのが正解なので、自分を好きになるためには「嫌いな自分」の否定をし続けなきゃならない。

たぶん合理的な理想像って「悪くないこと」の共通項であって、突き詰めると無個性なことなんだろうな。

個性ってのは理想像になれない原因であって、2種類あると思う。
ひとつは、理想の自分になるために足りない「未熟さ」「無能さ」だ。
もうひとつは「良いことではないこと(理想の自分にいらないこと)」だ。「良いことではないこと」は「悪いこと」ではない。判断できないことも含むのだ。つまり、どうでもいいことか迷惑なことと言い換えることができる。

未熟さや無能は改善の姿勢があれば良くなる。なのでこれは許容されるべき個性だと定義できる。
どうでもいい個性は、それにこだわる精神的歪みの発露でルサマンチン的である。無駄ともいう。このルサマンチンが、暴力や怠惰など良くないことと結びつくと許容できない個性になる。(カトリックの7つの大罪を当てはめると納得できると思う)

今回の僕の反省は、あるべき論を振りかざす強慾さや憤怒の思いが過ぎたと気付いた点にある。
人間は完璧にはなり得ないのだろうから、完璧など目指さず、自分の能力でできる精一杯までガンバレばいいと思う。
その上で、未熟や無能は認める姿勢が大事。ルサマンチン的な部分は先人の考えた7つの大罪の裏返し、我慢しない(暴食)、差別や排他的(色欲)、思い込みが強すぎる(強慾)、暴力的な姿勢(憤怒)、いいわけや憂鬱(怠惰)、虚飾や自己弁護の嘘(傲慢)と結びつかないよう自己批判をすべきじゃないかなぁって考えている。

「批判的思考」に悪印象もつ人もいるけれど、それは間違い。真実は否定しきれないものにあるわけで、自己流のやり方しかできない人や否定されるとボロが出る偽物の思考や主義者が、自己防衛のために「批判的思考」を拒絶するわけだ。
なので批判的思考に耐えられないのは、強欲であったり傲慢であることを隠そうとしているからだと言える

実は世の中の全ては「私の思う正しい何か」で語るのではなく、「客観的に否定すべき事柄をぶつけて否定しきれなかったこと」と「条件付きではあるが許容すべきこと」で語るべきなのだろう。

そして善悪の基準とは、客観的に否定しきれないものが「悪ではない」となり、それ以外は「悪かもしれない」となる。
「悪かもしれないもの」の逆や裏や対偶をさらに否定し続ければ、「悪」と「悪でも善でもない」が区別つくはずなのだ。

なので善悪の判断とは、知識だけではなく、知識を根拠に考え抜いた先にしか存在しない概念なのかもしれないね。

☆ 与太話をまとめる

(1) 真実は否定しきれない事柄のみ
(2) 個性とは合理的な思考結果の先にある理想の自分になれない要素のことである
(3) 否定しきれないこと以外は悪かもしれない

☆ 今回の思考に付随する僕の反省

「加害者がいるなら、被害者もいるだろう。加害者を責めるよりも、被害者への配慮が優先されるべきじゃないかな」といった気づき


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