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2015年02月10日18:37

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最高裁判事の思う「裁判員裁判と死刑」

■長野3人強殺、無期確定へ=裁判員死刑破棄3例目―共謀の元従業員・最高裁
(時事通信社 - 02月10日 18:01)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=4&from=diary&id=3267993


平成25年(あ)第1127号 住居侵入,強盗殺人被告事件
平成27年2月3日 第二小法廷決定

・・における死刑を求める検察側上告を棄却し、第二審の無期懲役を支持した、最高裁判事(裁判長裁判官 千葉勝美 裁判官 鬼丸かおる 裁判官 山本庸幸)の意見


本件は,第1審の裁判員裁判で死刑が宣告されたが,控訴審でそれが破棄され無期懲役とされた事件であり,これについては,裁判員裁判は刑事裁判に国民の良識を反映させるという趣旨で導入されたはずであるのに,それが控訴審の職業裁判官の判断のみによって変更されるのであれば裁判員裁判導入の意味がないのではないかとの批判もあり得るところである。

裁判員制度は,刑事裁判に国民が参加し,その良識を反映させることにより,裁判に対する国民の理解と信頼を深めることを目的とした制度である(裁判員の参加する刑事裁判に関する法律(以下「裁判員法」という。)第1条参照)。

そして,死刑事件を裁判員制度の対象とすることに関しては,反対する意見も存するところであるが,死刑という究極の刑罰に対する国民の意見・感覚は多様であり,その適用が問題となる重大事件について国民の参加を得て判断することにより,国民の理解を深め,刑事司法の民主的基盤をより強固なものとすることができるのであって,国民の司法参加の意味・価値が発揮される場面でもある。

ところで,裁判員法の制定に当たり,上訴制度については,事実認定についても量刑についても,従来の制度に全く変更は加えられておらず,裁判員が加わった裁判であっても職業裁判官のみで構成される控訴審の審査を受け,破棄されることがあるというのが,我が国が採用した刑事裁判における国民参加の形態である。

すなわち,立法者は,裁判員が参加した裁判であっても,それを常に正当で誤りがないものとすることはせず,事実誤認や量刑不当があれば,職業裁判官のみで構成される上訴審においてこれを破棄することを認めるという制度を選択したのである。

その点については,米国の陪審制度の多くは事実認定についての上訴を認めないという形での国民参加の形態を持っているが,これとは異なるものである。

もっとも,国民参加の趣旨に鑑みると,控訴審は,第1審の認定,判断の当否を審査する事後審としての役割をより徹底させ,破棄事由の審査基準は,事実誤認であれば論理則,経験則違反といったものに限定されるというべきであり,量刑不当については,国民の良識を反映させた裁判員裁判が職業裁判官の専門家としての感覚とは異なるとの理由から安易に変更されてはならないというべきである。

そうすると,裁判員制度は,このような形で,国民の視点や感覚と法曹の専門性とが交流をすることによって,相互の理解を深め,それぞれが刺激し合って,それぞれの長所が生かされるような刑事裁判を目指すものであり(最高裁平成22年(あ)第1196号同23年11月16日大法廷判決・刑集65巻8号1285頁参照),私は,このような国民の司法参加を積み重ねることによって,長期的な視点から見て国民の良識を反映した実りある刑事裁判が実現されていくと信じるものである。


2 次に,本件で争点となった死刑という量刑の選択の問題については,次のように考える。死刑は,あらゆる刑罰のうちで最も冷厳でやむを得ない場合に行われる究極の刑罰であるから,その適用は,慎重にかつ公平性の確保にも十分に意を払わなければならないのである。


法廷意見は,死刑の選択が問題となり得る事案においては,その適用に慎重さと公平性が求められるものであることを前提に,これまでの裁判例の集積から死刑の選択上考慮されるべき要素及び各要素に与えられた重みの程度・根拠を検討し,その検討結果を評議に当たっての裁判体の共通認識とし,それを出発点として議論することが不可欠であるとしている。

その意味するところは次のようなことであろう。すなわち,殺人という犯罪行為の特質やそれに対する死刑という刑罰の本質を見ると,圧倒的に重要な保護法益である生命を奪う殺人という犯罪行為に対する量刑上の評価としては,まず被害者の数が注目されるべきであり,死刑の選択上考慮されるべき重要な要素であることは疑いない(もっとも被害者の数を死刑選択の絶対的な基準のように捉えることは適切ではなく,最終的には他の要素との総合考慮によるべきものであることには注意が必要であろう。)。そのほか,生命という保護法益侵害行為の目的(動機)は,一般に,行為に対する非難の程度に関わるものであり,犯行の計画性は,生命侵害の危険性の度合いに直結するものであり,侵害の態様(執よう性・残虐性)等も究極の刑罰の選択を余儀なくさせるか否かの要素となることは,いずれも,これまでの裁判例が示してきたところである。

さらに,遺族の被害感情,社会的影響,犯人の年齢,前科,犯行後の情状等も取り上げられ得る要素である。これらの各要素をどの程度重要なものとして捉えるかは,殺人という犯罪行為の特質や死刑という刑罰の本質という刑事司法制度の根本に関係するすぐれて司法的な判断・考察と密接に関係するものであり,これまでの長年積み上げられてきた裁判例の集積の中から自ずとうかがわれるところである。

裁判官に求められるのは,従前の裁判官による先例から量刑傾向ないし裁判官の量刑相場的なものを念頭に置いて方程式を作り出し,これをそのまま当てはめて結論を導き出すことではなく,裁判例の集積の中からうかがわれるこれらの考慮要素に与えられた重みの程度・根拠についての検討結果を,具体的事件の量刑を決める際の前提となる共通認識とし,それを出発点として評議を進めるべきであるということである。

このように,法廷意見は,死刑の選択が問題になった裁判例の集積の中に見いだされるいわば「量刑判断の本質」を,裁判体全体の共通認識とした上で評議を進めることを求めているのであって,決して従前の裁判例を墨守するべきであるとしているのではないのである。


このことは,裁判員が加わる合議体であっても裁判官のみで構成される裁判体であっても異なるところはない(それが控訴審であっても同じである。)。

そして,裁判員を含む裁判体は,これらの共通認識を基にした上で,具体的事件で認定された犯罪事実等における前記各考慮要素を検討し,それらの総合考慮により非難可能性の内容・程度を具体的に捉え,結論として死刑か否かを決定するのであり,そこでは正に裁判員の視点と良識,いわゆる健全な市民感覚が生かされる場面であると考える。


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