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2015年01月29日18:55

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ウソの「証言」をした人は一人もいなかったか?



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 数が多いか少ないかは別として、「ガス室大量殺人」を見た、という証言は勿論、存在します。そして、それらは、戦後、半世紀以上の間、マスメディアなどで繰り返し取り上げられてきました。ですから、皆さんが、そうした「証言」をどう考えるか、とお尋ねになるのは全く当然のことです。しかし、その疑問に対して、先ず、私は逆にお尋ねしたいと思います。収容所で戦後を迎えた多数の生存者の中に、ウソの「証言」をした人は一人もいなかったのでしょうか?私のこの問いを、冷静に考えてみて下さい。一つの収容所だけで何万人も収容されていた場合もあるのに、そのように大勢いた被収容者の中に、ウソの証言をした人は一人もいなかったのでしょうか?或いは、有名になりたいいう気持ちから、ニュールンベルク裁判やマスメディアが語っているのと同じことを自分も目撃したと語った人は、一人もいなかったのでしょうか?または、政治的な動機から、例えばソ連に対する忠誠心などから、そのソ連の敵であったドイツ人の残虐行為を実際以上に誇張して語った「証人」は、一人もいなかったのでしょうか?−−では、今引用したアブラハム・ボンバ氏の「証言」などは、どう考えればいいのでしょうか?−−


 ナチスの被害者の中にウソの「証言」をした人がいたなどとは、私も信じたくありません。しかし、逆に、「証言があるのだから、ガス室はあったのだ」と言う方は、ウソの「証言」をした元被収容者が一人もいなかった、と断言なさるのでしょうか?そして、もう一つ。これが重要な事ですが、ナチスの収容所に入れられていたユダヤ人や政治犯、その他の元被収容者の中には、皆さんが信じておられるかも知れないのとは違い、「ガス室」の存在に全く否定的な証言をする人々が、実は、多数いるのです。そうした人々の証言は、マスメディアなどでは決して大きく取り上げられませんが、後で引用するように、現に存在し、「定説」側の出版物の中からすら見つけることができるのです。それも、アウシュヴィッツ(ビルケナウ)やトレブリンカに永くいたユダヤ人他の被収容者の証言の中にです。「証言があるのだから、ガス室はあったのだ」と言う方は、それでは、そうした「ガス室」に否定的な証言をするユダヤ人他の生き証人がいることは、どうお考えになるのでしょうか?そして、ウソの「ガス室目撃証言」をした元被収容者が一人もいなかったと、とお考えになる方は、例えば、今、ご紹介したアブラハム・ボンバ氏の「証言」は、どのように説明なさるのでしょうか?(他にも、この種の「証言」を挙げることは容易です)



 このことに関連して、ここで非常に重要なことをお話ししたいと思います。既に述べているように、この「ガス室大量殺人」には、物証と呼べるものはありません。テレビの資料映像には、ベルゲン・ベルゼンなどで撮影された病死者が、まるで、「ガス室」の犠牲者ででもあるかのように映し出されますが、「ガス室」で殺された死体は一体も確認されていません。また、処刑用ガス室の設計図も結局、発見されていません。それに、「ユダヤ人絶滅」の命令書も存在しなければ、そのための予算も計上されていないのです(既述)。それにも拘らず、「定説」側は「ガス室」があったと言うのですが、その「根拠」が何かと言えば、つまるところ、「証言」なのです。先ほど引用したアブラハム・ボンバの「証言」もそうした「証言」の一つですが、それはともかく、ここで、非常に重要なことをお話ししたいと思います。それは、こうした「証言」に基ずいて成立しているその「定説」側の説明が、実は、何度も変わっているということなのです。即ち、「ガス室」の話を中心とした「定説」側の語る「ホロコースト」の内容は、実は、戦後、何度も変わっているのです。皆さんは、このことに気付いておられるでしょうか?


 一例を挙げましょう。前にお話ししたベルゲン・ベルゼン収容所はドイツ北部にあった収容所で、戦争末期にイギリス軍によって解放されています。この収容所は戦争末期にチフスが大発生したことで有名で、そのことは、「定説」側の本でも、また医学論文にも明記されています。そして、この収容所に「ガス室」がなかったことは、前述のように、「定説」側の著作にはっきりと書かれています。当然、このベルゲン・ベルゼン収容所は、「定説」側の著作においても、アウシュヴィッツやマイダネックやトレブリンカのような「絶滅収容所」には分類されていません。
 ところが、戦争直後には、ある歴史家は、その「ガス室」などなかったはずのベルゲン・ベルゼン収容所について、こんな「歴史」を書いていたのです。


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「ベルゼンでは、クレーマー[西岡注:同収容所司令官]が、子供たちが母親から引き離され、生きたまま焼かれるのを眺める間、オーケストラにウィーン風の音楽を彼のために弾かせ続けた。ガス室で、毎日、何千人もの人々が殺されていたのである」(訳:西岡 原文は以下の通り)
 In Belsen, Kramer kept an orchestra to play him Vienese music while he watched children torn from their mothers to be burned alive. Gas chambers disposed of thousands of persons daily(Francis.T.Miller“ A Hostory of World War?”, 1945 p.868)

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 おかしいとはお思いにならないでしょうか?今日では「定説」側論者たち自身が「ガス室はなかった」と言っているベルゲン・ベルゼン収容所について、戦争直後には、こんなことが書かれていたのです。「ガス室で、毎日、何千人もの人々が殺されていたのである」などと・・・。つまり、話が変わっているのです。



 ベルゲン・ベルゼンだけではありません。例えば、ドイツ南西部に在って、アメリカ軍によって解放されたダッハウ(Dachau)収容所に関しても、同様に、話が変わっているのです。即ち、このダッハウ収容所についても、今日、「定説」側歴史家は、戦争中そこで「ガス室大量殺人」が行われていたとは言いません。「ダッハウのガス室は未完成だった」などと言って、そこで「ガス室」が使われていたとは言わないのです。ところが、このダッハウ収容所についても、戦争直後には、処刑用ガス室があり、多くの人々が「ガス室」で殺されていた、という話が堂々と語られていたのです。
 ベルゲン・ベルゼンについては、そこに「ガス室」があったと書いた前述の「定説」側歴史家ミラーは、自分が根拠とした証言を明記していません。しかし、このダッハウについては、フランツ・ブラーハ(Franz Blaha)という、チェコ人の医師で同収容所に収容されていた人物が、そこには処刑用のガス室があり、大勢の人々が殺されていた、と「証言」しています。しかも、そのブラーハという人物は、戦後の戦犯裁判に「証人」として登場し、その「ガス室」で殺された人々の死体を自分が「ガス室」内で検屍した、とまで「証言」しているのです。
 皆さんは、これをおかしいとはお思いにならないでしょうか?こんな具体的な「証言」が裁判という場で語られていたのに、今日、「定説」側の歴史家たちは、何故、「ダッハウのガス室は未完成だった」等と言うのでしょうか?rすまり、そこで戦争中「ガス室」による処刑が行われていたという説を自ら否定しているのですが、それならば、ダッハウでは実際に「ガス室処刑」が行なわれ、その死体を自分が検屍した、とまで語ったブラーハの「証言」とは、一体何だったのでしょうか?



 これだけではありません。その他にも、例えばドイツ中部に在ったブーヒェンヴァルト収容所などでも、かつては、そこに「ガス室」があったという「目撃証言」が語られていたのです。しかし、そのブーヒェンヴァルト収容所についても、今日では、「定説」側論者自身が、「ガス室」があったとは言わないのです。そこでも、「ガス室を見た」という「証言」があったにも拘らず、です。
 皆さんは、こうした「定説」側の変化を不思議には思われないでしょうか?このように、終戦後しばらくの間は、今日では「定説」側論者自身が「ガス室大量殺人」は行われていなかったと認める収容所で、「ガス室大量殺人」を目撃したという「証言」が堂々と語られていたのです。そして、それらの「証言」やそれに依拠した著述を反映する形で、戦後しばらくの間は、その「ダッハウのガス室」などが、本や映画に堂々と登場していたのです。そのため、戦後しばらくのそうした時期には、こうした状況を反映して、「ナチのガス室」といえば、ポーランドのアウシュヴィッツやマイダネックといった収容所よりも、ダッハウをはじめとする、ドイツ本国の収容所の方が、その代名詞として語られていたくらいだったのです(このことは、「定説」側の本も認めています)。


 このことは、こうした「証言」が、単に個人による「証言」として存在していたのみならず、欧米のマスメディアによって、「真実」として認知されていたことを意味します。例えば、『ニュールンベルク裁判』という、リチャード・ウィドマークやバート・ランカスターが登場する、文字通り、ニュールンベルク裁判を題材にしたアメリカの劇映画がありました。劇映画としては良く出来た作品ですが、例えば、この映画などにも、「ダッハウのガス室」は堂々と登場していたのです。それほど、「ダッハウのガス室」が当たり前に語られていた時期があったということです。つまり、それらの「ガス室」は消えたようなものですが、これがどういうことなのか、不思議に思うのは、私だけではないはずです。


 考えてもみて下さい。例えば、フランツ・ブラーハが語った「ダッハウのガス室」に関する「目撃証言」がもし本当だったとしたら、「定説」側歴史家たちは、なにも「ダッハウのガス室で大量殺人が行われた」という命題を否定する必要などなかったはずです。ところが、それを今日彼ら自身が否定しているのは一体何故なのか。それは、彼ら自身が、この「証言」を信用していなかったからではないでしょうか?・・・皆さんは、これでも、ウソの「ガス室目撃証言」はなかったとお考えになるでしょうか?

(西岡昌紀「アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか?」(日新報道・1997年)165〜173ページより)
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%84%E3%80%8C%E3%82%AC%E3%82%B9%E5%AE%A4%E3%80%8D%E3%81%AE%E7%9C%9F%E5%AE%9F%E2%80%95%E6%9C%AC%E5%BD%93%E3%81%AE%E6%82%B2%E5%8A%87%E3%81%AF%E4%BD%95%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%8B-%E8%A5%BF%E5%B2%A1-%E6%98%8C%E7%B4%80/dp/4817403934/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1251191180&sr=1-1


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アングル:アウシュビッツ元収容者が語る「逃れられない」過去
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=52&from=diary&id=3248368


2015年01月29日 09:10 ロイター


[オシフィエンチム(ポーランド) 27日 ロイター] - ナチスによるユダヤ人大量虐殺(ホロコースト)の象徴となったアウシュビッツ強制収容所の解放から70年を迎えた27日、同収容所で追悼式典が行われ、約300人の元収容者も出席した。その1人であるスーザン・ポラックさん(84)が自らの体験を語った。



アウシュビッツに列車で移送された1944年当時、ポラックさんは13歳だった。80人ほどいた車両の中はすし詰め状態で、高齢者や若者や母親、そして大勢の子供たちがいたという。「母と兄と一緒だった。誰も何もしゃべらなかった。車内は暑くて息苦しく、悪臭が漂っていた」と、ポラックさんは当時を振り返る。



どこに連れてこられたのかも分からず、到着後に新鮮な空気を吸うことができた喜びもつかの間、ポラックさんの母親はガス室で殺され、兄は遺体を処理する収容者のグループに入れられた。



ポラックさん自身は約800人の少女とともに収容された。そこでは、ナチスの医者が残虐な実験の実験台を選ぶため、少女たちは裸にされ、定期的に体を調べられたという。「ハンサムな医者が演壇に座って、左、右と棒で選別していた」



<弱さは死>



アウシュビッツに着いてから10週間後、ポラックさんは強制労働のため軍需工場へ送られた。そこで受けた食糧配給のおかげで生き延びることができ、「ラッキーだった」と話す。ポラックさんはその後、英国軍によって解放された。



現在、英ロンドンに暮らすポラックさん。追悼式典に出席するため再びアウシュビッツを訪れるのに、当時と同じくらい恐怖を感じていたという。だが、母親や多くの親類が殺された場所に戻るのはつらくはなかったかと聞かれると、「訪れない方がもっとつらい」と答えた。



「墓も何もなく、ただ頭の中に名前を記憶しているだけ。だからもう一度見てみたい」



アウシュビッツでは当時、涙は弱さの象徴であり、死を意味していた。だから今、ポラックさんは再び訪れて思う存分に泣きたいという。「可能なら、安らぎが訪れてほしい」



式典が開かれる日の朝、ポラックさんはガス室の中に入った。「凍えるくらい寒かった。裸にされてシャワーが出てくるのを待っているのを想像した」という。



ポラックさんは当初、今回再び訪れれば区切りがつくだろうと考えていた。だが実際は異なり、「とてもつらく、逃れられない」と感じたという。「このようなことを考えた人たち全員に永遠の裁きが下されることを願っている」



(Wiktor Szary記者、翻訳:伊藤典子、編集:宮井伸明)



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