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2015年01月24日17:25

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ヒトが、

相互に相手を認識して、交流し共感しあい協働できる範囲は、150人程度の範囲といわれている。

で、農耕社会でのムラの規模も、50戸ぐらいが、目が行き届く限界かもしれない。

それ以上になると、生活共同体はいくつかに分裂して、共通の祖先とかを祭った部族を形成することになるらしい。

で、こうした部族社会になると、普段からの交流に粗密ができるので、たとえば治水や入会地の利用とかをめぐって、各ムラの利害の調整の必要がうまれてくる。
ここに各ムラをまとめるための組織論の抽象化が生れて、その抽象論のレベルの違いが感情にむすびつくと、利害関係もふくめた憎悪が発生しやすいらしい。

人類学のレポートによると、部族社会は、案外に殺人事件が発生しているという。
社会的認識レベルでの他者との距離感が、部族社会では、抽象化と肉感的感情で一番混沌としやすいようだ。

4、5百人レベルの部族社会(4千年前のストーンサークルを持つ、青森の縄文集落は、5百人規模が2百年定住した遺跡だというが、宗教施設としてのストーンサークルや暦学的知識を持っていた。アメリカのネイティブ住民は、数千人単位の社会を形成したらしい)が、部族内の不安定な治安を維持し、より高度な集約農業の成果(より高度に組織化された文明)を得るためには、いくつかの部族がまとまって、小さな国家社会をつくる必要がある。

機械文明以前の社会では、肉体労働の価値が高いので、「奴隷獲得」が国の文明を支えていて、国家の繁栄は奴隷獲得戦争が、国家編成の柱になることが多い。
*近世にはいっても、奴隷制度は残っていて、1530〜1780年の250年間で、地中海をはさんで南ヨーロッパからアフリカに売られた白人奴隷は、1,250,000人いたと推測され、アフリカからアフリカに売られた黒人奴隷は、その10倍いたという。

古代でも、こうしたレベルに到達した文明は数多いし、なかには独自に文字の発明にまで到った文明は複数あり、「帝国」となると、もはや当時の「多くの民族宗教を包含した全世界」を、「神のごとく支配」した。
*例えば、キリスト教が世界宗教になりえた条件には、世界を支配したローマ帝国の不安定な下級兵士に、キリスト教が支持されたからという説明がある。

この場合、こうした集団をまとめるためには、日常的な生活習慣をコントロールするモラル以上の、より権威的な宗教や、さらには他宗教を統治する統治論が必要になってくる。


一方、子どもの「他者意識」を、発達心理的にみると、母子同体でいた赤ん坊時代から、快・不快体験を通じて、子どもは「他者」を認識することになるが、
保護を必要とする幼児期までは、子どもにとっての親は、自分への快の源泉として認識される一方、その喪失は世界の崩壊を意味するので、不快は極端に嫌われ、恐れられ、憎悪される。

養育環境によって違いもあるが、8〜10歳ごろまで、幼児的快原則で集団化するために、異質な者への警戒蔑視憎悪がエスカレートしやすく、他者との関係は、一心同体(1人称関係)ではないが、1.5人称関係で、感情的にも同化と憎悪が、めまぐるしく揺れ動く。
この混乱を抜けると、「他者」を「自分にとって、快も、不快も与えうる独立した人格」(2人称関係)として、認識できてくる。

DVとか、ヘイトスピーチとかの、憎悪の激化は、この発達論でいえば、1・5人称関係の特徴である。

で、こうした1.5人称関係での社会認識は、恐怖妄想と権威妄想が強いので、絶対的暴力論理が支配的になる。

例えて言えば、絶対神による矛盾した啓示に振り回される旧約聖書の世界は、1.5人称的世界で。
「契約」により、神とつながる新約聖書の世界は2人称的世界になる。


で、先の部族社会での暴力性は、他者との共感協働が肉感的にとらえやすいムラ社会から、1・5人称世界での、半端な社会認識(他者認識)によって抽象化された「社会妄想」を前提に考える必要がある。

一般論として、古代の女系家族は1.5人称的価値観が強く、そこから暴力原理を強めて封建社会、さらに2人称社会を基盤とする近代社会に、人類は歩んできた。
*世界史的にみると、氷河期がおわって、狩猟採集社会から農耕社会、さらには集約農業への発展を支えた技術革新といった社会進化は、地理的条件に規定された自然環境に影響されたようだ。

近代社会を象徴する、「進歩、文明、文化」というテーゼは、そうした2人称的価値観への、ヒトの目覚めともいえる。

近代国家が私闘を禁止し、暴力を一元的に管理することで、ヒトの平和を維持管理する責任を負ったのは、部族社会が案外に暴力的社会であったことによる。


しかしヒトの文明化(平和主義)は、過保護・放置といった育て方によって、いつでも1.5人称世界に先祖帰りする。

近代国家といえども、2つの世界大戦を経験したように、帝国主義的論理のなかで、憎悪を燃やしている。


幸い日本は、70年間の不戦の歴史をもつが。
ヘイトスピーチやホモフォビアといた、ホモソシアル的レイシスト運動や全体主義的暴力的価値観への先祖帰りは、メタンガスのように、いつでも吹き出る可能性を秘めている。

ワタシが、「未来型不幸」と呼ぶのは、企業内でも、国・地方に関係無く、浮かび上がるサビのように、1.5人称人格による「他者への想像力の貧困」からの管理不全が起きて、いろいろな面で国民の人権が阻害されていることなのだが。

そのことは、今目の前のアジア状況を、「第一次世界大戦前夜」と認識する程度の政治的リーダーを、日本国民が支持していることと、無関係と思えない。


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