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2015年01月21日22:23

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地元について(第37回)

1月21日(水) 〔第873回 日記開始から2969日目〕

武蔵国分寺跡資料館

館内では模型で当時の伽藍の配置が判るようになっている。
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国分寺とは聖武天皇の詔に依り全国に造られた寺であり、国分寺と国分寺尼寺から成る。
その総本山が奈良の東大寺だ。
時代的には国府が置かれた時期と同じであり、ここ武蔵国にも国分寺と国分尼寺が
道路を挟んで東西に配置されていた。

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上記の写真は以前に展示されていた模型
道を挟んで上が国分寺、下が国分尼寺。道は南北に貫かれており左上が北である。

中央の道路は東山道武蔵路であり、そのまま南に下れば武蔵国の国府に至る。
この地、多摩は古代においては武蔵国の中心地であったのである。
その多摩と言う名称は当時からあった名で多磨郡と言われていた。
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各郡の瓦
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多磨郡の瓦
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資料館には各寺の瓦も展示されているが、多磨寺の瓦も見ることが出来る。
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ただしこの多磨寺の所在は明らかでなく、武蔵国府の近くであったとの推定だけ成されている。
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この時代(奈良時代)は国分寺が各地に建立されたように仏教が興隆してきた時代。
(聖武天皇の国分寺の詔は741年)
それまでは神道(神社)が主であった日本に仏教が浸透してきた時期であり、
この時代は神社と寺がまだ区別されていた。

これ以後、神道と仏教の混合が進み、現在のように仏教と神道(つまり寺と神社)が、
再び分けられたのは、明治維新の折に発せられた神仏分離の大号令からである。

『神社と寺は別だ』という意識を持つ人がほとんどだと思うが、日本の長い歴史から見れば
“神仏習合”の時代が圧倒的に長く、現代のように寺と神社が分かれている時代の方が
短いのである。
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正月の初詣に寺や神社に分け隔てなく参拝しても違和感がないのは、
神仏習合の時代から続く考え方が気持ちとして、今でもあるからだと思う。

(続)


本日は以上。

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