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2014年12月28日19:38

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シャトーブリアンからの手紙(La mer a l'aube)


 

 ドイツの巨匠フォルカー・シュレンドルフが、第2次大戦時、ナチス占領下のフランスで、1人のドイツ人将校が暗殺されたことから、ヒトラーが150人のフランス人の銃殺を命じたという史実を映画化した人間ドラマ。1941年10月20日、ナチス占領下のフランスで1人のドイツ人将校が暗殺される。ヒトラーは報復として収容所のフランス人150人の銃殺を命令。過度な報復に危険を感じたパリ司令部のドイツ軍人たちは、なんとかヒトラーの命令を回避しようとするが、即日50人、さらに1日ごとに50人と3回にわけての刑執行にするのが精いっぱいだった。政治犯が多数収容されているシャトーブリアン郡のシュワゼル収容所では、銃殺されるフランス人のリストが作られていくが、その中には、映画館でドイツ占領に反対するビラをまいたために収容された、まだ17歳の少年ギィ・モケも含まれていた。ギィは、塀を隔てた女子収容所にいる同い年の少女オデットに恋をしていたが……。(映画.comより)





 「ブリキの太鼓」はその評判は耳にしながらも未見で、シュレンドルフ監督がどんな監督かもよく知らないままの鑑賞となってしまいました。

時は1941年。フランスはドイツの占領下に置かれています。そんな時代ですから、ドイツの占領に不快感を持つ若手分子もいるわけで、そんな若者の一人がナント(今は映画祭が行われていますね)でドイツ将校を暗殺します。個人的にその将校に恨みがあったわけではありません。将校であれば誰でもよかったのです。とにかく、なにかしたかったのでしょう。

しかし、殺されたのは将校。「ふぅぅぅん」では済みません。ヒトラーは報復として、収容所に収容されているフランス人を150人殺せと命じます。激高していた彼は「即日」とも言ったようですが、さすがにそれはできません。

この命令には、さすがにパリ司令部のドイツ軍人達も「いくらなんでも」「犯人はわかっていますし、処刑します」とベルリンにとりなしたようですがヒトラーは聞かず、またフランスの現地スタッフ(軍)も、普段はドイツ軍の命令に従ってはいますが、占領を快く思っていないのは当然で、あまりの命令に唖然とします。

そんなドイツ軍・フランス軍双方の取りなしで、「処刑リストを作るためには日数がかかる」とか「1日に50人ずつ3回に分けて処刑する」とか、なんだかんだと理由をつけて先延ばしにし、ヒトラーの機嫌が収まるのを待つのですが、いつまでもというわけにはいかなかったのです。

この映画は処刑された中でも、政治犯が収容されていた「シャトーブリアン郡ショワゼル収容所」が舞台になっています。政治犯と言っても、インテリなおじさんからビラを撒いただけの17歳の少年まで、雑多に放り込まれていて、みな考えはそれぞれでしょうが、「国家を転覆しよう」などと大それたことを抱いている輩はなく、隣の女子収容所の女の子を見染めたり、地域で徒競争をしたりと、暢気なものです。

と、そこへ降って湧いた処刑計画。政治犯ゆえ、矛先が向いたのです。この「シャトーブリアンからの手紙」というのは、最期の時を迎えるにあたって呼びだされた神父さんに、皆から渡された家族・友人への手紙のこと。たった17歳の少年や、今日釈放予定だった青年などを見るにつけ、現地の軍人達に「何に従って生きるのだ。命令の奴隷になるな」と呼びかけた神父さんの言葉が心に残ります。しかし、彼らとて、たった一人で偉大なるヒトラーやナチスに逆らえるはずもないのです。ハンナ・アーレントの「悪の凡庸さ」、彼女がアイヒマンのことを「極悪人ではなく、凡人」と言ったのを思い出しました。

17歳の少年ギィ・モケは、その若さゆえ、戦後ナチ抵抗の悲劇の象徴となり、その名がパリの地下鉄の駅の名前にもなったそうです。ドイツにおける「白バラ抵抗運動」の「ゾフィー・ショル」になぞらえて「フランスのゾフィー・ショル」と呼ばれることもあるそうです。

この映画は、作家・思想家のエルンスト・ユンガー氏の回想録と、ノーベル文学賞作家ハインリヒ・ベル氏の小説、この二つから着想を得ているため、処刑された犠牲者たちだけではなく、その意に反して(「プライベート・ライアン」のアパム曹長のように)電話交換手だった(ドイツ軍)文系男子がいきなりこの地に放り込まれ、いきなり処刑を命じられ腰が砕けてしまう場面も挿入されます。

どの人もみな、善意を持った人間だった。完全な悪人はいなかった。しかし、それでもなお、虐殺は行われた・・・多分、監督が言いたかったのはそこだと、素人ながらに思います。

時代って、本当に恐ろしい。私達だって、時代が違えば、お国のために死ぬことが美しいと本気で思っていたかもしれない。先日学校で勉強していて爆撃されたかの国の子供達だって、時代が違えば、明るく校庭でスポーツに高じていただろう。

戦時中に、市民として勇気を発揮するのは難しい。ましてや軍人ならば。だからといって諦めてはいけなかったのだ、と言うことなのだろうけれど、翻って自分がそこにいたなら。こんな平和な時代でも、充分小市民な自分。決して人のことは責められないと思う。

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