町田の独り言
キャンピングカーのガイド本を編集する町田が語るよもやま話
コンテンツへ移動
ホーム
プロフィール
← 目白美術館で、桐野江節雄展を観る
祭りは楽し →
反知性主義の時代
投稿日: 2014年9月14日 作成者: 町田
かつて思想的な立ち位置を示す標語であった「右翼」とか「左翼」という言葉が、今は意味をなさなくなった時代だといわれている。
冷戦時代までは、わが国においては、マルクス主義を報じて革命を目指す思想を「左翼」。天皇を崇拝の頂点に置き、その左翼革命から “国を守る” 勢力を「右翼」という分かりやすい対立構造があった。
しかし、冷戦構造が崩壊して、ソ連が資本主義国家となり、中国も開放経済に邁進するようになった現在、かつて日本で “左翼” といわれた人々は、“お手本とする国家” を失い、せいぜい「右傾化を強める安倍政権に反対して、日本の平和と民主主義を守ろう」風の、リベラリストとしての主張を繰り返すぐらいしかできない。
一方、今の「右翼」といえば、ネットなどで「嫌韓」や「反中国」を標榜する “ネトウヨ” 勢力を指す場合が多く、そこには、かつての右翼が持っていたような思想的先鋭さはない。
「右と左の対立」などという言説も、急速に風化しつつあるようだ。
それに代わって、新たな対立軸として浮上してきたのが、「教養主義あるいは知性主義」と、それを毛嫌いする「反知性主義」だという。
最近たまたま読んだ本が、2冊とも、これに言及するものであった。
ヤンキー化する日本
一冊は、精神科医の斎藤環氏が著した 『ヤンキー化する日本』 (角川ONEテーマ21)。
斎藤氏には、『世界が土曜の夜の夢なら − ヤンキーと精神分析』 という面白い本があり、自分はこの本からいろいろな刺激を受けた。
今回の 『ヤンキー化する日本』 はその続編ともなるものだが、前著のように持論を述べるだけではなく、“ヤンキー文化” を考察できる人々との対談集という体裁をとっている。
斎藤氏は、同著のなかで、
「現代は、ヤンキー文化がかつてないほどの広がりを見せている時代ではないか」
とテーマを投げかけ、そこに、日本人の精神風土に深く根差した “反知性主義” の系譜を見出す。
氏に言わせると、
「ヤンキーは、熟慮を嫌う、理屈を嫌うという反知性主義の傾向が強い」
… のだそうだ。
それは、ヤンキーの好む言葉からも推測できる。
「ヤンキーにとって無条件に「良いもの」とされている言葉は、『夢』、『直球』、『愛』、『熱』、『信頼』、『本気』、『真心』、『家族』、『仲間』、『覚悟』、『遊び』、『シンプル』、『リアル』、『正直』 … 」
どれもヤンキーとは関係なく、現代日本社会で、当たり前のように賞賛されている言葉に過ぎない。
しかし、それこそが、斎藤氏のいう “現代はヤンキー文化がかつてないほどの広がりを見せている” という考察を裏づける。
それらの語群の背景にあるものは、
「アツさと気合いで、やれるだけやってみろ、という行動主義」。
ゴールには「夢」があり、そのゴールに向かうエネルギー源は「愛」や「熱」、そして「気合い」と「アゲ」が至上の価値観となる。
つまり、
「判断より決断が大事、考えるな、感じろという世界」
感じるためには、思考は邪魔になる、という論理展開となる。
お笑い芸人たちが天下を取った背景
同氏は、このようなヤンキー気質を持つ人物像として、次のようなモデルを提出する。
「ヤンキー親和性の高い人々は、基本的にコニュニケーションが巧みである。いま学校で、スクールカーストの上位を占めるのは彼らだ。
ちなみに教室内の身分を決定づけるのは基本的に 『コミュ力』 だが、その内実は会話能力などではない。空気が読めて、他人をいじって笑いが取れる才覚のことだ。理屈を言うヤツ、考えるヤツは「キモイ」と言われ、カーストの 『中』 以下になってしまう。
彼らの 『コミュ力』 のロールモデルはお笑い芸人だ。お笑い界にはヤンキー出身の芸人も少なくない。
ヤンキー的芸人といえば、引退した島田紳助がいる。
彼は 『自頭(じあたま)が良い』。彼が賞賛されたのは、司会者としての仕切りのうまさであった。
このような自頭を計る基準もまた 『コミュ力』 である。学校空間のみならず、日本社会においてインテリが束になってもかなわないのは、『自頭の良い(キャラの立った)ヤンキー』 であろう」
現代社会で人気を集めているのは、まさに、このような人物。
特に、子供たちの注目を集めるお笑い芸人の大半は、上の引用がそのまま通用するようなキャラクターを持っている。
お笑い芸人ではないが、かつて一世を風靡した橋下徹大阪知事も、この系譜に入る。
橋下氏のように、「情報量の少ない会話を無限に続けることができる 『コミュ力』 こそが、覇者の条件なのだ」という。
実際、橋下氏が反論するインテリたちを相手に、ばっさばっさと快刀乱麻に切り捨てるトーク番組は痛快ですらあった。
それを観ていた若い人たちは、さぞや “知性なんてなんぼのものか” という思いに駆られたことだろう。
ヤンキーは実利をとる
このような “反知性主義” 的な文化風土が形成されてきたのは、それほど新しいことではない。
斎藤氏にいわせると、
「昔から日本人の大多数の価値観では、空気を読まずに理想を語り続ける者は、どの集団でも敬遠され、『ホンネという現実』 を受け入れた者だけが周囲からの承認を集め、力を獲得してきた」
… のだという。
氏にいわせると、そもそも坂本龍馬の時代からそういう系譜が顕在化したのだとか。
龍馬人気というのは、「理屈よりも自頭の良さで世の中をリードした」という神話が結晶化したもので、裏を返せば、ヤンキー人気。
彼の先見性というのは、封建社会に生まれ育ったにもかかわらず、いちはやく資本主義的な嗅覚を働かして、商売を立国のかなめに据えようと考えたことにある。
それがなぜ “ヤンキー的” かというと、理屈よりも実利を重んじたところにあった。
斎藤氏はいう。
「ヤンキーは反知性主義だからといって、勉強が苦手、とは限らない。自頭の良いエリートヤンキーは、タテマエとしては学歴をバカにしつつも、猛勉強して一流大学に入り、弁護士や行政書士の資格を取るものもいる。
ただし、彼らは徹底して実学志向になる。哲学とか精神医学とか、実利につながらない学問は洟(はな)にもひっかけない」
そこには、意外と計算高いリアリズムがあり、
「彼らは、“社会を変えよう” とは言わない。“社会が変わる” とも信じていない。彼らの夢をポエム風にまとめると、こうなる。
『世界は変わらない。変えられるのは自分だけだ』 。
つまり彼らは、自らの夢すらも実現可能な範囲にとどめておけるだけのリアリストなのだ」
… ということになる。
「社会を変えよう」
というのは、これまで左翼的なインテリの専売特許だった。
彼らは言い続けた。
「今までの既存の政治体制や古びた思想から脱却し、大衆よ目覚めろ。家を捨てて荒野に立て」
と。
しかし、このような “切断” を強要する言説は、ヤンキーからもっとも毛嫌いされる。
何しろ、ヤンキーが尊重するのは、「夢、愛、信頼、家族、仲間」なのだから。
安倍首相はヤンキーだ !?
このようなヤンキー気質が、特に世の中のメインストリームを形成し始めたのは、
「2012年の暮れに第二次安倍政権が成立してから」
と、斎藤氏は指摘する。
対談パートに入ってから、氏は、中国文化に詳しい歴史学者の與那覇 潤(よなは・じゅん)氏との対談で、こういう。
「(安倍さんは)さすがに 『瑞穂(みずほ)の国の資本主義』 という迷言を吐いただけあって、ヤンキー的としかいいようがない体質を持っている。
思想的な一貫性はあまり重視せず、ロジックがなくてポエムだけがある。ヤンキー的な人々というのは、感性を肯定するために知性を批判する」
ちなみに、「瑞穂の国の資本主義」というのは、安倍首相が2013年1月号の『文藝春秋』 に掲載した論文 (以下一部を孫引き) 。
「日本という国は古来から、朝早く起きて、汗を流して田畑を耕し、水を分かち合いながら、秋になれば天皇家を中心に五穀豊穣を祈ってきた 『瑞穂の国』 であります。
私は瑞穂の国には、瑞穂の国にふさわしい資本主義があるのだろうと思っています。自由な競争と開かれた経済を重視しつつ、しかし、ウォール街から世間を席巻した、強欲を原動力とするような資本主義ではなく、道義を重んじ、真の豊かさを知る、瑞穂の国にふさわしい市場形成の形があります。
…… 安倍家のルーツがある長門市には棚田があります。日本海に面していて、水を張っているときは、ひとつひとつの棚田に月が映り、遠くの漁り火が映り、それは息をのむほど美しい。
棚田は生産性も低く、経済合理性からすればナンセンスかもしれません。しかしこの美しい棚田があってこそ、私の故郷なのです。そして、その田園風景があってこそ、麗しい日本ではないかと思います」
… というような詠嘆調の美文で綴られた論文で、斎藤氏は、その無邪気な率直さを認めながらも、“内容空疎の名調子” と喝破する。
そこに散りばめられた言葉には、「自立自助」、「汗を流す」、「道義」、「美しさ」などという、およそ政治の言葉とは無縁なボキャブラリーが横溢し、ヤンキーの愛する「夢、愛、熱、信頼、真心、家族、仲間、覚悟、正直」などという言葉と親和性が高いことを指摘する。
ヤンキーは、事あるごとに、
「考えるな、感じろ」
というが、それに対して、斎藤氏は一言。
「考えない者には、感じることすらできない」
日本劣化論
安倍政権の本質を「反知性主義」と断じたもう1冊の本に、笠井潔&白井聡両氏の対談集 『日本劣化論』 (ちくま新書)がある。
ここで笠井氏は、今の安倍政権が、アメリカの意向を汲むような政治路線を歩んでいながら、対中国戦略などにおいて、アメリカとの関係がぎくしゃくしてきた理由として、
「 …… (安倍政権が対米関係に鈍感なのは)安倍個人の知性の問題もあるが、日本社会に深く根を張りつつある新たな反知性主義の問題でもある」
と指摘。
それを受けて、白井氏は、
「こういう時期にああいう人間が首相になって、最高権力者になってしまったということは偶然ではなく、ある意味必然。社会全体に反知性主義が蔓延してきた結果である」
と応じている。
ここでもテーマは、「日本に広まりつつある “反知性主義” 」だ。
では、笠井・白井両氏のいう「反知性主義」とは何か。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー以上転載ーー
http://campingcar.shumilog.com/2014/09/14/%E5%8F%8D%E7%9F%A5%E6%80%A7%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E3%81%AE%E6%99%82%E4%BB%A3/
ログインしてコメントを確認・投稿する