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2014年12月13日07:49

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「黎明」より 第13章 大師 (6)

ここでもう一度原点に還ってみたいと思いますが、実在しているのは唯一つの生命だけなのですから、ある魂に属する経験と、別の魂に属する経験とを分離して扱うことは、本質的には余り意味のあることではありません。実際アーカシック・レコードを読む際には、自分の経験と他の魂の経験とを識別することは大変難しい作業で、よく間違いが生じるのですが、これを間違いとするのは、分離の生じている波動領域での捉え方なのであって、普遍意識では個々の魂の区別や分離というものは存在していませんから、「総ては私で在る」と言う言葉は真実になり、自分が誰であるといったところで間違いではないことも理解して下さい。
かつてサイババ大師が「イエスが『アバ、アヴォン』と天の父を呼んだとき、呼ばれたのは私である」と言う意味の言葉を語ったことがあります。これは敬虔なくりすちにとっては卒倒しかねない発言かも知れませんが、この時点でのイエスは、まだ自分が神と一体で在ると言う認識には至っていなかったので、自分を天の父とは分離して呼び掛けたものであり、彼の呼び掛けを神と一体の本来の意識状態から観れば、「自分が自分に呼ばれた」と言うことになるわけで、これは私達の誰もが、普遍意識の自覚に至れば言うことのできる言葉なのです。

一八三五年九月二十三日、インドの元二ザム州パトゥリに生れ、一八五三年にシルディにきて、一九一八年までその肉体を保っていたシュリ・シルディ・サイババ大師が、現在のバガヴァン・シュリ・サティア・サイババ大師の過去世であることは有名ですが、シルディ・サイババ大師の帰依者の中には、サティア・サイババ大師がシルディ・サイババ大師の生れ変りであることを認めない人達も大勢います。こうした事例に看られるように、私達の多くが、大師の実相で在る、自らの内に実在する唯一の生命を自覚することなく、大師の現象我(パーソナリティ)という幻に権威を与え続けている限り、「誰が本物か」というような、迷妄に基づく議論や混乱は幾らでも生じてくるわけです。

「あなたがもし疑いがもって私のところにくるなら、私はあらゆる疑う理由をあなたに与えよう。しかし、もし愛をもって私の元にくるなら、私はあなたの想像を超えた愛をあなたに観せてあげよう」(ハイラカン・ババジ大師)

地上で異なる表現を採る二人の大師は、その実相においては同一の実在ですから、地上から見た二人の間には、コミュニケーションというものが全く存在していなくても、互いに相手の総てを識っていると言う状態に在ります。厳密に言えば、大師の役割に因って現象的な意識の守備範囲が異なりますから、個々の大師の理解の程度は異なりますが、これは私達の想像を超えるレヴェルでの話ですから、このことについて、推測に過ぎない観念を造らないようにして頂きたいと思います。肉体を持った二人の大師が地上で出逢うという機会はそう多くはないものですが、かつてハイラカン・ババジ大師が帰依者と共にムンバイ(ボンベイ、インド中部の都市)に向う列車の中で、アーナンダマイ・マー大師と座席の背もたれを介して反対向きに座るという出来事がありました。このとき二人の大師は互いに全く無視しているかのような態度を採っていましたが、これは大師同士は一つの意識ですから、コミュニケーションをする必要が全くないことと、それぞれの帰依者は自分との縁で解脱に至ることを識っているため、帰依者の関心が他の大師に向くことは、その人に寄り道をさせるだけになってしまうので、こうした迷いが生じないように配慮しているわけです。

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