mixiユーザー(id:47361257)

2014年11月24日18:48

24 view

人の死を受け入れるということ

小児臓器提供 広がらない背景
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=2&from=diary&id=3154986

心臓に関していうならば、小児臓器提供が日本で広がらない背景に、古くから日本では、心臓死を以って、人の死としていたのに対し、欧米では脳死を人の死としていたことに大きな要因があると僕は思っている。

人は、心臓が止まってしまえば、全身に血液を循環させることができなくなり、自然、脳もやがて死んでしまう。
だが、脳死状態でいえば、生命維持装置を装着することで、心臓を動かすことは、現在の医学では可能なのである。

つまり、人の死の線引きとして、心臓死を人の死と考える僕たち日本人にとっては、例え維持装置を装着しなければ心臓を動かすことができない身体であったとしても、脳死で横たわっている人に対して、その人が死んでいると、なかなか受け入れることができないのである。

それは、その脳死の人間が愛する我が子であった場合は尚更だろう。

もし、自分が脳死になったら、僕は最終的に、家族がどう判断するかは判らないが僕自身は、自身の臓器を提供しても良いと思っている。
きっと助からないであろう自分の生命の為に、家族に大きな負担と迷惑を掛けるくらいなら、脳死を人の死と受け入れ、いっそ使える臓器は、それを必要とする人の役に立って貰えれば、家族も僕の死を受け入れる決心が、まだしやすいんじゃないか、と思うのだ。

ただそれは、いくら僕の意志であったとしても、その意志を尊重するかどうかは、家族の決断による。

そして、もし僕が逆の立場で、嫁や息子たちが脳死になった時、それが嫁や息子たちの意志であったとして、その意志を尊重することができるのか、と考えてしまう。
目の前で、脳死で横たわっている嫁や息子たちがいて、心臓は動いている。
そんな嫁や息子たちを見て、これは死んでいるんだと自分を納得させることができるのだろうか。

いや、きっと、心臓が動いているんだから、もしかしたら、と一縷の望みを懸けて、嫁や息子たちを見守るんじゃないだろうか。
そう思ってしまうのだ。

これは臓器提供をする、しないの問題じゃあない。
それ以前の、もっと根源的な人の死を受け入れることができるかどうかの問題だ。

そして、こうした臓器提供の問題には、脳死を人の死と受け入れることができるかどうかということが、臓器提供できるかどうかの大前提になっている。

そういう意味で、今回、脳死になった6歳の女の子の臓器提供を決断された御家族には、大変な葛藤があっただろうと思う。

どうしても、こうした記事を目にすると、同じくらいの息子がいる僕にとっては、臓器提供される側の立場ではなく、臓器提供する側の立場で臓器提供というものを考えてしまう。
それは、きっと僕の息子たちが五体満足で健やかに育ってくれているからなんだろう。
息子たちが、この先、臓器提供を受けることなんかないだろうと勝手に思うから、臓器提供する側の立場ばかりで、臓器移植を考えてしまう。

だから、脳死の我が子を目の前にして、臓器提供を待ち望んでいる人たちのことを考えて、臓器提供を決断された、この御家族の人を思い遣る気持ち。
僕のような自分の幸せしか考えない人間には、到底及ばない尊いものだ。

その思い遣りの気持ちをもって我が子の脳死を人の死として受け入れたことは、本当に凄いことだと思う。
こと、人の死を心臓死としてきた日本で。

だが、もしかすると、臓器提供というきっかけがなかったら、この御家族もまた、脳死を我が子の死として受け入れることはなかったんじゃないだろうか。

それくらい脳死で我が子の死を認めることは難しいと僕は思う。
0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する