mixiユーザー(id:47361257)

2014年11月06日23:23

33 view

学校教育の責任と聖域

いじめは学校の責任だと思いますか?
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=116&from=diary&id=3128428

校内で起こるいじめは、もちろん学校の責任だ。
学校の教員ならば、そのことを確りと認識しておかなければならない。

学校の責任といっても、教師ばかりに責任があるわけではない。
いじめた人間、間接的にいじめに加担した人間、いじめとわかっていながら見て見ぬフリをした人間、そして、それらを取り巻く学校という環境にいじめの責任がある。

もちろん、先生にだって責任はある。

学校というのは小さな社会だ。
それも子供たちだけの小さな社会。
そこでは、実際の社会でも起こる様々な問題も起こりうる。
そして、その問題に対する社会的責任は、学校という小さな社会の中で責任を取っていかなければならない。

もし、それが出来ないというなら。
外部の一般社会が介入し、一般社会における社会的判断で、責任を取ってもらうしかない。

このコラムにもあるように、いじめというのは、一般社会に照らし合わせれば、立派な犯罪行為であり、許される行為ではない。
暴行罪、窃盗罪、恐喝罪、いじめという言葉で隠されているが、どれも重い罪ばかりだ。

それを警察の介入を許さないのは、学校というのは、或る意味聖域であるという考えのもとで、学校教育が行われていたからだ。

だが、そうした権利を学校が主張するならば、それに伴う責任も果たすべきで、このコラムにある先生のように、学校内でのいじめに対する責任を学校ばかりでなく、社会に求め、その責任を取る覚悟がないのなら、もはや、もう今の学校教育に、聖域など存在しないことを先生自らが認めていることになりはしないか。

それはつまり、いじめは学校の先生の手に負えるものではない、ということを自らが認めていることで、ならば、学校内で起こる、こうしたいじめは、発覚した時点で暴行罪、窃盗罪、恐喝罪として、すぐに警察が介入すべきではないか。
そして、一般社会に於ける責任を教育の場に於いても適用すべきではないか、と思うのだ。

きっと、こうした疑問が現場の先生から起こるというのは、学校教育にも限界があるのだろう。
今の親の躾の問題や先生と生徒、先生と保護者の関係性。
そうしたものを考えると、学校教育の問題としていじめを解決するのは無理なんだろう。
ならば、一旦学校は聖域という考えを捨て、こうした行為が一般社会で行われれば、どのような社会的責任と社会的制裁を負わされるか、というのを身をもって教える必要があるのかも知れない。


7 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する