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2014年08月02日21:18

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日本橋の麒麟

いわゆる「銀座通り」とは、新橋から、シネラマ館テアトル東京のあった京橋を経て日本橋へ至る2キロ余りの行程であることを今更ながら知り、なる程と思うのである。

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ちなみに日本橋は日本橋川の上に架っているが、新橋と京橋も、それぞれ新橋川と京橋川の上に架かるのだろうか。そんなこたあるまい。日本橋川というネーミングだって充分におかしい。日本川と日本橋、あるいは日本川と日本川橋ではいかんのか。

昨日、早速歩いてみた。新橋-京橋-日本橋コースを。

私の心の地図で、京橋は長い間、日本橋の近辺にあったが、実際には二つの橋は1キロ余り離れている。京橋は有楽町から400〜500m、日本橋は東京駅八重洲口から数100mの距離にある。

日本橋へ至ってのちは神田を経て万世橋へ、御茶ノ水を経て水道橋へ、更に中央線に沿って飯田橋へ…という具合に橋から橋へと経巡ることが出来る。日本橋の下を流れるのは神田川を墨田川に連結する旧・日本橋運河、現・日本橋川であるが、上記のルートを歩むうち、橋の下の川は、いつしか神田川に戻っている。

日本橋の袂には「東京市道路元標」という、全ての国道の起点であることを示す”ゼロマイル”ストーンが設置されており、日本橋自体も、この元標を物理的に誇示するモニュメントとして作られたものだから、元標位置と日本橋は共に動かせず、両者は一体である。

ところが、1963年以来、橋の上に覆いかぶさっている高速道路の老朽化により、この道路をいっそのこと取っ払って、第19代日本橋(1911年)のみの原景を回復させるか、または同じような高架自動車道を新設するかで激論が闘わされた時、いや、寧ろ日本橋自体を移築すべきだ!との珍説を唱えたバカが居た。石原慎太郎だ。文士の端くれでありながら「もののあはれ」を解さず、都知事として「大江戸」線なる時代がかった呼称をごり押ししたくせに、江戸の昔にまで遡る国道元標と橋との歴史的不可分性を、このアホは知らなかった。こやつの本質的田舎者ぶりが図らずも露顕した稀代の珍事件であるから、以後、石原は慎太郎改め「珍」太郎を名乗るように。

「新参者-麒麟の翼 2011」を観つつ、左様な逸話を思い出したワケ。

なぜ「麒麟の翼」かと云うと、日本橋の中央部の欄干上に、翼を広げて今まさに飛び立たんとするブロンズ製の麒麟(首の長いアレじゃなくて架空の麒麟な)が建っているからだ。道路元標が日本の全道路網の起点であり終点である如く、この物語もまた日本橋から始まり日本橋で終わる。

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以下、昨日、歩きつつ考えたことと今日考えたことを未整理のまま書き留めておこう。

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真・都心
江戸の昔はいざ知らず、現在の東京は偏心している。東京の地理的中心は東の旧都心日本橋でもなければ、ロラン・バルトが「空虚なる中心」と呼んだ皇居でもなく、ましてや西の副都心新宿でもない。今日、地理的な「真の都心」は四谷に位置する。少なくとも山手線内の地域に限れば、そういうことになる。

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帝国主義の象徴的建造物であるところの日本橋とエッフェル塔

両者は機能も形状も異なるが、形而上的照応を認めることなら出来る(かも)。

そして、それぞれの設計者を、歴とした体制の担い手にはふさわしくない「鬱屈」という共通のタグで括ることが出来る。

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エッフェルは建築家ではなく土建屋だった。
エッフェルは、かの塔を建立する以前、版図拡張活動盛んなりし19世紀末フランスの国内外の様々な土木工事を請け負い、パナマ運河開削プロジェクトにも業者として参加したが、塔の意匠的造作に「建築家」として携わったのはエッフェルではなくソーヴェストルである。因みに、日本におけると同様、フランスでも建築のステータスの方が土木より上なので、ムッシュー・エッフェル自身の社会的地位は彼が建立した塔ほどには高くない。とはいえ、エッフェルは石から鉄とガラスへの建築素材の変遷の先鞭をつけた人間である。

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石から鉄へ
パリ人による塔批判、セーヌの水で産湯をつかった生粋のパリッ子は、あんな塔へは絶対に登らない云々は、当時の石から鉄への是非を巡る議論の残滓を後代の人間たちが意味も分からず踏襲・反復しているに過ぎまい。

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日本橋の造営に建築家として携わったのは元旗本、妻木頼黄である。妻木は私がしばしば訪れる横浜赤レンガ倉庫の設計者でもあった。主任土木技師が誰だったかは忘れた。

妻木は、東京新都庁舎を設計した丹下健三の如き実に体制的な建築家であったが、明治という時代に対する何らかの面白くない気持ちをも抱えていたらしく、そこいらの事情は長谷川堯(たかし)著「都市廻廊」に詳述してある。

ともあれ、件の「翼の生えた麒麟」を、長谷川は水辺から陸に向かって咆哮する旧江戸の地霊の鬱屈(すなわち妻木自身の鬱屈)を象徴するものと捉えた。明治維新とは水運都市・江戸が陸運都市・東京への転換を遂げる契機でもあった。

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木、石(煉瓦含む)、鉄筋コンクリート間の相克
開化後の日本には、まず石、次に鉄骨が矢継ぎ早に押し寄せたから、現在、国全体の景観が斯様な具合となっているのかも。

オリジナルの日本橋は無論のこと木橋であるが、それが「文明開化」によって石造となり、その上へ更なる文明開化の象徴たる鉄骨とコンクリートの高架自動車道が乗っかった感じ?

鎖国ニッポンの幻影、鹿鳴館ニッポンの遺構、そしてアメリカの精政(精神&政治)的しもべとなったニッポンの現在が、三つながら何の工夫も無く時系列順に積重ねてあるのが、あの日本橋という地点なのである。

石原は、そのように諸般の歴史的・文化的事情が錯綜する建造物を動かせと。剽軽な爺様だろ?

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凱旋門

日本橋をエッフェル塔に無理やりたとえるならば、では凱旋門の同等物は何だろう…
と考え込むまでもなく気づいた

凱旋門などあるわけがない。だって日本はイクサに負けたんだから。

生き残った兵士達は胸を張って凱旋行進せず、めいめいが陸路、水路そして徒歩でひっそりと帰郷した。故に凱旋門は無い。

では「敗戦門」ならあるのか?

いや、それも無い!と即座に却下しかけて思い直す。あるじゃないか。敗戦を紀念する構造物が。東京ではなく広島に。


参考:
都市廻廊 - あるいは建築の中世主義(長谷川堯)1975。中公文庫版 1985
エッフェル塔試論(松浦寿輝)1995。ちくま学芸文庫版 2000

Wikipedia - 日本橋
Wikipedia - 麒麟の翼

新参者-麒麟の翼 2011
http://www.dailymotion.com/video/xxhrt7_%E9%BA%92%E9%BA%9F%E3%81%AE%E7%BF%BC-part-1_shortfilms
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