mixiユーザー(id:47361257)

2014年06月28日13:06

16 view

本当に死刑が必要のない国になるということ

死刑執行「やむを得ない」法相
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=2&from=diary&id=2944424

少し感情的な話になるので、もしかしたら不適切な表現をするかもしれない。
お叱りを受けるかもしれない。
なので、この後の日記を読んで不快な思いをされた方、初めにお詫びしておきます。

僕は、この先、冤罪に巻き込まれない限り、自分が死刑になることはないと思っている。
あなたはどうだろう?
冤罪を抜きに考えて、自分が死刑にならない自信はありますか?

僕のこれまでの倫理観の中で、人を殺すことはないだろうと思っている。
そんな恐ろしいことはできないし、だいいち人に向かって刃物を向けることすらできない。
僕の中では、これは理屈ではなく、当たり前の倫理観で人を殺すことは絶対にやってはいけないコトなんである。

だから、人を殺したら、それ相応の罰を受けることは当たり前だという認識があるし、僕の祖母なんかは僕が幼少の頃、人を殺したら、自分も死刑になるよ、と教えてくれた。
そんな僕にとって、谷垣法務大臣のやむを得ないという言葉は、すんなりと受け入れられる。

要は罰の残虐性や死刑の是非ばかりが言われるが、死刑をなくそうと思えば、その前段階として、すべての人々が死刑になるようなことをしなければ、死刑はなくなるのだ。
それを、私利私欲のために残虐な殺人を犯してしまった後の人間に対して、死刑の是非云々というのはオカシイような気がする。

何故なら、その人間は、日本に死刑制度があることを認識していながら、罪を犯したのだ。
自分のやったことで、捕まれば死刑になるかもしれないとわかっていながら罪を犯した。

知らなければやってもいいという訳ではないが、知っていて、それでも罪を犯すというのは、それなりの罰を受けて当たり前だと僕は思う。

それでも日本は、簡単に死刑になる国ではない。
先日の記事でも、一歳の女の子を虐待し、殺したとて、死刑にならない。
懲役が長い人生のうちのたった15年であっても、刑が重いと不服が言える国だ。

そんな国で死刑になるということは、その人間はよっぽどの罪を犯したのだ。

死刑の是非を問う前に。
まずは考えてみたい。
死刑になった人は、何故死刑になったのかを。
そして、死刑になるようなことをしなければ、本当は死刑なんて必要がないということを。

目指さなければならないのは、死刑のない国でなく、死刑が必要のない国なのだ。

不快な表現がありましたらお詫びいたします。
10 6

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する