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2014年06月02日19:08

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小さな身体は7年経っても小さな身体のまんま

■「供養に、死後一度だけ帰宅」 厚木男児遺棄、父が供述
(朝日新聞デジタル - 06月02日 15:33)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=2906999

僕の息子のはるちゃんは、5歳になる。
亡くなった男の子と同い年だ。
そして、今年の11月が来ると息子は6歳になり、来年の4月には、小学生になる。

でも、この男の子は、ずっと5歳のまま。
時が止まったまま。
亡くなって、7年が経ち、周りの同級生が中学生になっても、この男の子は5歳のまま、その小さな身体を誰にも見つけてもらえないまま、ずっとゴミの散乱した部屋の中に放置されていた。

そう、7年もの間、ずっと。

父親になって思うこと。
それは、子育てというのは、何かしら自分の生活や時間を犠牲しなければならないということ。
自分の時間を後回しにしても、子供たちの為に時間を優先するということ。
そして、自分の食べ物やお金を減らしても、子供たちの為に分け与え、遣うということ。

僕の母親はいつも、ヨレヨレの服を着ていた。
そうやって、僕や僕の弟、妹に服を買ってくれていた。
子供の頃、母親がいつも同じ服を着ているので、僕は恥ずかしかった。
他のお母さんは、参観日にキレイな服で来てくれたので、僕の母親はいつも同じ服。

でも、僕は自分が2人の息子の父親になって、あの時の母親の気持ちが分かった。
そうやって、僕たちを育ててくれた母親や父親に感謝できるようになった。
そう。
僕も今、そうやって息子たちを育てている。
自分の服や靴は後回しにしても、はるちゃんやみのりくんに、服や靴を買う。
はるちゃんは、僕のボロボロになった靴を見て笑う。

「パパ。靴がボロボロやな。新しいの買おうね。」

「ハハハ。パパな、この靴が気に入ってるねん。やから、これでいいねんで。」

気が付けば、自分があの時の母親と同じコトを言っている。

でも、それでも僕は幸せだ。
はるちゃんやみのりくんが、そうやって元気に育ってくれるのが、大きくなってくれるのを見るのが幸せだ。

それが親になるということ。

この男の子の父親は、母親は、果たして我が子に対して、そのような気持ちを持ったことが1度でもあったのだろうか。

食べ物をロクに貰えず、いつもお腹を空かせて、暗い部屋の中で、パパやママの帰りを待っていたのだろうか。
きっと、怖かっただろうし、不安だったろう。
きっと、寂しかったし、悲しかったろう。
そう思うと、哀しくて遣り切れない。
そう思うと、腹立たしくて遣り切れない。

結局のところ、この父親は、母親は、自分の時間や生活が大切で、子供ために犠牲になんてしたくなかったのだろう。
結局のところ、自分たちの生活の為なら、我が子でも邪魔に思うことが出来たのだろう。

だから、死んでも構わないと思えたのだろう。

ハッキリ言う。
この父親に、母親には、親になる資格はない。
いや、子供のまんま歳だけが大きくなっただけの人間なんだ。
自分のことしか考えられない、自分の欲望を子供のために抑えらない人間は、親になってはいけない。
何故なら、それは、精神が駄々を捏ねる子供と同じだからで、精神に成長がない人間だからだ。

この父親が帰宅したのは、供養の為じゃない。
この男の子の為じゃない。
自分の為に、様子を見に帰っただけだ。
そんな自己弁護は許さない。
だって。
この男の子は、7年もの間、暗い部屋の中で、その小さな身体が骨になっても、誰にもその存在を見つけて貰えなかったのだ。
その無念の気持ち。
その気持ちを考えたら、こんな自己弁護は絶対に許してはならない。
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