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2014年04月03日19:58

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【映画】アナと雪の女王 考(っぽいモノ)

特定の方には超オタノシミの『考』バージョンです。

多分、ほとんどの方が観てると思うから書いちゃうよ、載せちゃうよ。


全面的にネタバレです。
観ていない方は、読んじゃダメ。

体裁をそろえるのはめんどくさいので、未編集ですが、中身バリバリの『考』です。
(最後の塗装工程を省略したくらいのね)



だ・か・ら、観ていない方は、読んじゃダメ。

というより、『アナと雪の女王』は、大傑作の類ですので、早く観に行った方がいいですよ。

アナ雪を観てから、また、読みに来てくださいね。







そんじゃ、レッツゴー!!!












1 悪役(ヴィラン)不在の最終形態

大抵の物語には、明確な悪や敵が存在します。
そして、ディズニー作品にとって、その最期の描かれ方には、ある法則が存在していて、
それは、
 主人公達をギリギリまで追い詰め、その直後に足を滑らせるなどして
 高いところから転落するが、最期の姿は、露骨に描写されない
というもの。

ガストン(美女と野獣)は、短剣をふりかざしすぎてバランスを失い、
フロロー(ノートルダムの鐘)は、裁判官よろしく、天罰をうけ、
高所から落ちて最期を遂げます。

ちょとひねりが効いてるのは、スカー(ライオンキング)です。
彼を追い詰めるのはハイエナ達なので、純然たる自滅とは違います。
でも、自身が撒いた種によって、追い詰められる様子は、まさに自業自得。
舞台は文字通りの崖っぷちで、前門のハイエナ後門の奈落といった趣。
退けば、転落死というところは変わりません。

なぜこうも、ヴィランの転落が多いのか、ワタクシなりの考えをめぐらせてみた結果、それは、やはり、地獄堕ちの暗喩なのだろうと思います。

対して、アナ雪は、小悪党こそ存在するものの、明確な悪役は出てきません。
かつて、ジョン・ラセターは、『レミーのおいしいレストラン』で、似たような状況のお話をやってのけましたが、それでも、そこには、「悪しき状況を解決しよう」というベクトルがはたらいていました。
根っからの悪役はいませんが、『悪いことに染まった環境/悪しきことが放置された状態』という描写はあったのです。
(参照:http://mixi.jp/view_diary.pl?id=513533087&owner_id=3722815
    http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1362597312&owner_id=3722815

しかし、アナ雪は、そこを一段推し進めてきたのだから驚きです。
今回、エルサやアナの周りに存在するのは、魔法の暴走という「不具合」であって、全く持って、悪ではありません。
むしろ、それは、偶発的な天変地異か、事故の類か、もっと言えば、『欠陥・欠落』あるいは、『異能・異端』『異才・鬼才』というべき物事や状況…

アナ雪は、『一般常識/普通の常態からズレた事柄』をどうするか、というテーマに挑んでいるのです。
すげぇな、マジで。

おまけに、それを最終的に「取り除き解決する/無かったことにする」のではなく、それらとの「折り合いをつけ、共存を実現する」という理想像を子供にも判る形で提示してしまったのですよ。

まったくもって、表向き昔話の体裁で、バリバリの現代劇をやってしまったのですから、これは、まことに驚愕至極です。



2 神はいたかー(棒読)

さて、アナ雪の世界観で、もう一つ大事なことがあります。
それは、特定の宗教観に依存する描写がみられないことです。

戴冠式の場面で、確かに司祭らしき人物が取り仕切る場面がありますが、画面上で、シンボルマークや立像といった、具体的に宗教を特定できるような画は出てきません。
1では、地獄堕ちの不在を指摘しましたが、どうやら、アナ雪の世界観では、天国や特定の神の存在すらも排除されていることが伺えるのです。

はっきり言うと、本作品においては、キリスト教の影響が徹底的に排除されています。

従来のディズニー文法に則るなら、物語は、勧善懲悪のドラマを踏襲するはずです。
しかし、ここでの大事なことは、その善悪の基準は、どこにあるのかという、視点の問題です。

従来のディズニー文法は、善き者は、神に赦されることで奇跡の恩恵を受け、悪しき者は、神の裁きを受けて地獄に堕ちるという、キリスト教的世界観が根本にあって、そこから逸脱していないと思われます。
ヴィランは、地獄に落っこちて死んでしまい、主人公たちには、天から光が降り注ぎます。
これは、善き者に対する神からの祝福に他なりません。

現在こそグローバルなディズニーですが、スタート地点は、アメリカ(あるいは、西欧)ドメスティックであったはずで、彼らのメイン顧客を相手にする場合、常識的にキリスト的世界観に基づくお話が出来上がるのは当然でした。
しかし、今現在、世界を相手に商売をするうえで、特定の宗教観/文化背景に依存することが、ディズニーの市場拡大の障害になってきたのではないでしょうか。
(もちろん、アメリカの人口構成変動による、国内市場におけるシェア低下も含めて)

アナもエルサも、神の力/奇跡の賜物としての祝福を天から与えられるのではなく、自身の成長/内なる魂に基づく行動の帰結としての幸せを獲得するに至ります。
アナは、天から降り注ぐ光ではなく、自身の内から湧き出るエネルギーで変貌していきます。これは、美女と野獣のラストに似ているようで、根本の考え方が全く異なった表現であることが判るでしょう。

アナ雪の世界には、人間(と、ごく一部のクリーチャー)だけが居て、そこに、神は居ません。
この舞台には、ほぼ現実と地続きの世界が広がっており、最初から、天国も地獄もなかったのです。



3 愛すれば願いはかなう

従来型ディズニーの世界観がキリスト教を基本にしていた以上、そこでの愛の描かれ方が一定のパターンに陥るのは当然でしょう。
愛は、正しい(一対の)男女間のみ双方向に存在し、神から賜る愛は一方通行で現れます。

なお、それ以外、存在する事は許されません。
タブーです。

あらあら、ずいぶん、浮世離れしてしまいましたね。

あと、見落とされがちですが、登場人物が、『一心不乱に夢の実現を願い続ければ、最後にはその願いが叶う』という描写も、実は、宗教的な愛の表現の延長型です。

この場合、主人公のお願いは、誰宛てなのかというのがポイントで、それは、とりもなおさず、神なのです。
神にお願いすること、すなわち、お祈りを捧げることは、それ自体が、『完全に善』とされているわけですから、その善行に対して、神が無尽蔵の愛で応えるのは当然という文脈が成立します。

『願い続ければ、夢は叶う』というのは、極めて宗教的な躾の延長をカムフラージュするためのキャッチフレーズなのです。

古典的ディズニーが、ある一定層のファンを獲得しつつも、それが頭打ちになっていったのは、ひとえに、これらの作劇上の宗教的縛りに根本原因があったと思われます。
そりゃぁ、サンタさんを信じなくなった途端におさらばしたくなりますよね…


今回、アナ雪は、宗教的な愛の束縛を自ら突き破り、新たな愛の表現を試みています。
それは、まさに、普通に生きる人々ならば、持っていて当然の心情、『家族愛/人間愛』『自分の隣人を大事に思う心』でした。

逆に、宗教の縛りを外したからこそ、全世界中の子供たち・大人たち、すべての観客となりうる人々に広く訴えることができる作品の素地が出来上がったのです。

実際、今になっては、よくできましたとしか言えませんが、それは、やはり、新興勢力であるピクサーの文化・慣習がもたらした効果だと思います。
旧態依然とした、ディズニー文化を引きずる面々に、そんな冒険ができただろうかと考えると、やはり、ジョン・ラセターを招へいしたからこその方針の大転換と考えるのが妥当でしょう。



4 大人の鑑賞と興業のはざまで

あくまで、個人的な意見ですが、アナ雪は、レミーの改良系/進化型だと思います。
しかし、それは、マイナーチェンジどころの話ではなく、明らかなモデルチェンジ、同じ路線を狙いながら、出来上がった作品の立ち位置は、全く違っていました。
はっきりいえば、レミーなくしてアナ雪は生まれなかったでしょうが、もしも、アナ雪が先にできていたら、レミーの存在意義はほとんどありません。

個人的な好みの意見として、レミーの素晴らしさは、今でも色褪せないと思います。
大人の鑑賞に堪える作品という意味で、金字塔といっていいです。

というか、ごめんなさい。
この意見は、アナ雪を観るまでは、という但し書きの上ででした。

ワタクシにとって、レミーは、大人のみ楽しむことを許されるリトマス試験紙というのが、アナ雪を観た後の正直な感想になってしまいます。
今になって思うと、当時、小学校3年だった息子が、レミーに「あれ?」と首を傾げていたのも納得です。
(同時上映のリフテッドには、大爆笑していたけどね)

そりゃ、そうです。

まだ、10年そこらしか生きていない、長期的に未来がある若者を捕まえて、「努力したって、才能が開花する保証はない」と言い切ってしまったのがレミーの世界観です。

もちろん、

それでも、失望するにはもったいない、生きていれば、傑出した素晴らしさを作り出せなくても、それを愉しむ立場や、そこに寄り添い、サポートする立場にだって立つことができる。
役に立たない立場なんて、ひとつもないんだよ。

という、ものすごく、苦みが効いたフォローも読み取れますが、小学生低学年以下には、こりゃツライよ、てか、無理だ。

もし、レミーを観て、上記を感じ取る子供がいたとしたら、余程の早熟か、子供として大事な何かが足りないと思う。

レミーは、作品の質こそ最高グレードですが、興行成績は、難しかったと思います。
ピクサー印/ディズニー印を期待して観に行く観客の最大ボリュームは、小さな子供を複数連れた家族です。
先行して観たママ友や、独身の身内等からの「子供にはツライよぉ?」の一言で、レミーの興行成績は、頭打ちになり、一気に落ち込んでしまったでしょう。
レミーで、吹き替えと字幕の両方を観て、解釈の違いを確認したり、脚本のひねり込みを堪能したりするのは、ある種のフリーク。
正直、変わり者です(ワタクシの事ですね)。

アナ雪はどうでしょう。
先行した顧客が、次々、字幕/吹替/2D/3Dといったバージョン違いをリピートし、隣人を誘い、家族連れで、劇場に津波のように押し寄せ、この現象は、止むどころか拡大する一方です。
(いや、ここは雪崩のように押し寄せるというべきだったか?)

この差を生み出した原因をうんと要約すれば、実は、オラフに行きつくのです。
アナ雪は、オラフのおかげで、大人の鑑賞に堪えつつ子供も楽しめる、オールレンジ作品になっているって気づきました?



5 カギを握る男?オラフ

さて、真打ち/オラフの登場です。
パッと見、単なるコメディリリーフの体裁をしていますが、実は、彼こそが、ピクサー流とディズニー流をつなぐ架け橋、水と油を混ぜる乳化剤なのです。

アナ雪のお話の本流は、ものすごく大人の味付けで、かなり苦みが効いています。

「問題」は、とりあえず解決しましたが、それは、一時的かもしれません。
何かの拍子にエルサの心情が乱れたら、今度は、地球全部が凍りつく可能性だってあるかもしれません。

みたいな、デッドエンドの読み込みさえできるくらい、この作品世界の不安定さは、現実世界にそっくりです。
そして、仮に、オラフが現実世界そのものの物理法則にさらされたら…(略)

ところが、オラフは、ハッピーなままでした。
正確に言うと、オラフだけが、従来のディズニー的文法の中で生きていて、それが、一切、壊されることなくエンディングを迎えているのです。

劇中でオラフの歌う歌詞は、かな〜り可笑しな内容ですが、重要な伏線になっています。
「熱い夏と、寒い冬が一緒に来たら、超ハッピー♪」

ラストシーン、オラフが叫びます。
「ボクの雪雲だぁっ♪」
本当に、『オラフのまわりだけ』夏と冬が一緒にきてしまったのです…ww!!


オラフは、純粋無垢なまま、無邪気に願いました。
そうしたら、「願い続けるだけで夢が叶ってしまった」、しかも「魔法の力で」。
これは、ラセターが、散々、否定してきた『無限ポジティブ』そのものです。
数々のピクサー作品を通して、あれほど、甘々なディズニー文法『願い続ければ夢はいつか叶う』『無限ポジティブ』を徹底的に解体したラセターが、なぜ??


全編にわたり、苦みの効いたお話の中に、一匹だけ超あっまーいマシュマロ野郎の顛末がある、このピンポイントの構図こそ、ラセターがレミーを反省し、ディズニーから学んだ教訓ではないでしょうか。
そして、この構図が、何に似てるかというと、ワタクシは、『東京ディズニーシー』じゃあないかと睨んでいますよ。



6 ラセターがディズニーから学んだもの

ラセターは、相当な日本びいきで有名です。
おそらく、東京ディズニーリゾートの事も、ある程度、精通していると思います。
(てか、来日する度に行ってるよね、きっと)

彼は、東京ディズニーシーのコンセプトから、オラフの扱いを思いついたんじゃなかろうか。

ディズニーシーは、併設のランドに比べて、非常に大人向けの造りをしています。
それでも、いくら、大人向けと謳っても、ディズニーブランド自体は、子連れのゲストを誘引してしまうでしょう。
キャストは、全てのゲストに、等しく、最大限のおもてなしをしなければならず、さりとて、小さな子供がぐずったり騒いだりすると、他の大人のゲストに迷惑が及ぶ…

ディズニーシーは、子連れゲストを彼ら向けに特別にしつらえたアリエルやジーニーのエリアに引き寄せて、そこに長くとどまらせることで、パーク全体の大人の味付けを保つことにしました。
少しの例外を認めることで、結果、全体のクオリティを担保し、かつ、頑なにコンセプトに固辞する場合よりも、はるかに多大な顧客/実利を得ることに成功しているのです。


実は、アナ雪の土台は、「雪の女王」だけではなく、同じくアンデルセン童話の「雪だるま」から、オラフの原型を借りています。
で、その原典版では、「雪だるま」は、物理法則どおりに溶けちゃいます。

厳しいですね。

アナ雪では、かわいい雪だるまが溶けることなく、ヒロインの魔法で守られ、彼のイノセンスが100%担保されることで、純粋な世代の子供たちは『おとぎ話』に大喜び。
子供を連れてきた大人たちも安心して画面に集中でき、苦みの効いた『おとな話』を堪能できます。
結果、上映途中で子供がぐずったり、座席を立つような無粋な光景は激減して、作品の評価はうなぎのぼり。
噂を聞いた、他の家族連れは、安心して劇場に足を運ぶことになりましたとさ…
めでたしめでたし。

これこそ、ラセターが、ディズニー側の椅子に座ったからこそ学ぶことができた戦略じゃないでしょうかね。




だから、もう一度言いいます。

アナと雪の女王は、従来型のディズニー映画ではありません。
あえて言うならば、新ディズニー、いや、むしろ、もっとも洗練されたPIXER作品の正統なる後継者として、生まれるべくして生まれた作品でしょう。

アナ雪がミュージカル仕立てなのは、このようなドラスティックな構造変更を上手に飲み込んでもらう為のオブラート故でしょう。
(ここでの飲み込ませる相手は、観客/ディズニー上層部の両方向ですね)
アナ雪から、ミュージカル要素を排除すると、すっごく、シリアスなピクサードラマだという事がバレバレだし、何よりオラフ浮きまくりで、変な事になりそうです。

それくらいに、アナ雪は、『ネズミの皮を被った電気スタンド』なのです。

今後は、『シンデレラ城のロゴの輝きは、それを照らす、ルクソーのおかげ』くらいに考えるのが妥当じゃないかしら?
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