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2014年01月10日18:45

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坊主憎けりゃ袈裟まで憎い

喜多嶋舞の父親、大沢の主張に反論 「でっちあげだと思ってる」と激怒
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=54&from=diary&id=2718631

こんな事はあってはならないことだが、もしも、僕と嫁がこの先離婚したとする。
とすれば、どちらが2人の息子を引き取るだろうか、ということを考えてみたい。

おそらく、2人の息子の親権は、嫁が持つことになり、息子は嫁が引き取って、育てることになるだろう。
そして僕は、経済面でのサポートを養育費という形で、嫁や息子たちにしていくことになるだろうと思う。

断っておくが、これは仮定の話だ。
僕たち夫婦は、円満でやっているし、今のところ離婚をする予定もない。

そして、僕は嫁を愛しているし、2人の息子も同じく愛している。
そんな僕が、この仮定の話で親権を考えてみても、先ほどの答えに辿り着く。

もちろん、2人の息子を愛しているから、離ればなれになりたくはない。
でも、もし、嫁と生活を分かつことになれば、そして、息子が嫁か僕のどちらか一方としか一緒に暮らすことができない、となれば。

おそらく、息子たちは、パパである僕より、ママと一緒に暮らすことを選ぶだろう。
そして、おそらく嫁も、それを望むだろう。
僕としては、息子たちのこれからの生活、幸せを考えた時、親権は嫁に渡し、自分は定期的に息子たちに会う形で、息子たちを蔭から支える道を選ぶだろうと、僕は思う。

但し、これは夫婦関係が円満である僕が、あってはならない仮定で考えてみた答えだ。
離婚する時は、そんな円満な離婚ばかりではない。
時には、憎しみあって、親権や養育費ついてドロ沼のような状態になって、やっとのことで離婚する。
そんな離婚だって、珍しくないはずだ。

親権と言われば、一般的にどちらが子供を引き取るか。
つどちらも引き取りたいという気持ちがぶつかり合って、子供の左右の腕を父と母が引っ張り合う。
そういう構図が思い浮かばれる。

だが、世の中には、どちらも引き取りたくない親同士が、子供の親権をなすりつけ合う。
または、片方の親が引き取りたくがないために、仕方なくもう一方の親が子供を引き取る。
そういう構図だって、本当はあるはずだ。

冒頭の僕の仮定の話だって、嫁が親権を取ることを希望すれば、初めて成り立つ話で、もし、嫁が親権を拒否すれば、僕が息子たちを引き取るしか方法はなくなる。
いくら息子たちがママと一緒に暮らすことを望んでいても、当のママがそれを望んでいなければ、それは叶わぬ希望なのだ。

僕は、大沢、喜多嶋夫妻の間に、何があって、離婚に至ったのかを知らない。
そして、この息子さんが本当に2人の間に生まれたのかも知らない。

ただ一つ思うのは、母と子の愛情という点において、僕は喜多嶋舞母子の愛情がひどく薄いように感じるのだ。
これは僕の偏見なのかもしれないが、夫婦が離婚する時、よっぽどの理由がない限り、子供の親権は母親が取るんじゃないだろうか。
そのよっぽどの理由にも、色々あるだろうが、父親や父親側の親族が強く親権を主張したり、子供が母親より父親との生活を望んだり、母親が親権を拒否したり・・・。
まあ、色々あるだろうが、大抵は母親側が親権を取る。

この夫妻にどんな事情があって、父親側が親権を取ることになったか。
それは、僕には知る由もないことだ。

だが、僕が喜多嶋舞母子の愛情の薄さを感じたのは、親権が今回、再び母親側に移っても、喜多嶋舞は親権を拒否し、自分の両親に親権を移し、自分の息子を引き取ってもらったこと。

ここに尽きる。

つまり彼女にとって離婚というのは、1人の母親として、という以上に1人のオンナとしての意味合いが強かったのだろう。

もし、今回のDNA鑑定結果が、大沢樹生の主張する通りなら。
これは、大沢樹生にとっては、本当に辛いことだ。

こういった問題を話しすると、必ず血の繋がりの話になる。
つまり、生みの親より育ての親で、そこに親子の愛情があれば、血の繋がりなんて関係ない、という話。

だが、それは、親が子供を育てる上で、或る程度納得できる場合でないと、血の繋がり云々は成り立たない。
必ずしも円満でない形で離婚し、いや、もしかしたら、憎しみあって離婚した場合。
しかも、母親が放棄した親権を自分の息子だからと引き取って育てていたのに、その息子が間男との間の息子で、それを知らずに自分の息子だと思って育てていたという場合。
果たして、生みの親より、育ての親なんて綺麗事が成り立つのだろうか。
しかも、生みの親は自分の息子であるにもかかわらず、間男との間の息子を自分に押し付けたのだ。

愛情と憎しみは表裏一体だ。
愛していた相手に裏切られた時、その愛情は何倍もの憎しみに変化することもある。

そして、こんな諺がある。

’’坊主憎けりゃ袈裟まで憎い''

人の愛情とはそんなもんだ。

それでもまだ、息子と呼び、父と呼ばせる大沢樹生に、僕は血を超えた愛情を感じる。
これが本心ならば。

喜多嶋舞の親が娘を庇うのは当たり前だ。
そこに親子の愛情があるからだ。
娘の子供を引き取って育てるのもそう。
愛する我が娘のことだから。

そして、喜多嶋舞の息子が喜多嶋舞を庇うのも。
自分のお母さんだから。

喜多嶋舞に、その親子の愛情は伝わっているのだろうか。

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