やしきたかじんさん死去 再復帰かなわず
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今朝、関西では明け方から降りだした雨が、しとしとと、今も降り続いている。
これを涙雨というのだろうか。
僕の父親が若かりし頃、祇園で毎日飲み歩いていた時があった。
その時に、祇園ではこんな噂があったらしい。
''祇園のクラブで弾き語りをする男で、とんでもなく歌の上手いヤツがいる。''と。
父親は、とあるクラブで、一度だけ、その男とその歌声に出会した。
それが、後の''やしきたかじん''だったらしい。
どうやら僕は、酒呑みの有名人が好きらしい。
彼らの発する破天荒さとその語り口に惹かれるらしいのだ。
そして、どこか人としての弱さ、繊細さに、たまらなく人間臭さを感じるのである。
人とは、強がっていても、どこか弱いところがあって、その弱さを酒で紛らわす。
破天荒さと繊細さは、表裏一体なのだ。
やしきたかじんとは、僕には、そんな風な人に映る。
だから、彼が唄う歌は、とても繊細で、女心を唄う歌は、彼の歌声を通して、僕らの心に響く。
だから、彼の周りには、人が集まってくる。
だから、関西の人は、彼のキャラクターを愛してやまない。
どれだけ毒舌を吐こうが、どこか憎めないんである。
夕べ、たかじんの訃報を速報で知った時。
僕は、今から10年前にこの世を去った、中島らものことを思い出した。
中島らもは、今から10年前、泥酔状態で神戸の、とある飲食店の階段から転落して、頭を強く打ち、脳挫傷で亡くなった。
まだ52歳という若さだった。
中島らもが亡くなった時、ファンだった僕は、当然ショックを受けたが、心の何処かでは、中島らもらしいな、と思った。
彼は常々、自分は長生きできないと公言していたし、浴びるような酒浸りの毎日で、健康とは程遠い生活をしていた。
そんな中島らもが、階段から足を滑らせて、頭を打って死んだ。
病気で寝たきりになるのでもなく、年老いて床に臥せって亡くなるのでもなく、階段から足を滑らせて、呆気なく死んだ。
誰にお別れを言うでもなく、呆気なく、あちらの世界へと旅立って行ったのだ。
だから、僕にとっての中島らも、あの時の中島らものままだ。
10年経った今でも、何処かで中島らもは生きていて、また新しく執筆をしている。
酒を飲み歩いている。
そんな風な気がしてならない。
やしきたかじんについても、何故か同じような気持ちになった。
彼はまだ、何処かで生きていて、何処かのクラブやバーで、今も酒を飲み歩いているんじゃないか。
そんな風な気がしてならない。
たかじんは自分の死にあたって、本当に近しい近親者のみにしか、自分の死を見せなかったらしい。
葬儀も、たかじんの妻、娘くらいのもので、殆どの人が夕べの発表まで、彼が亡くなったことすら知らなかったらしい。
きっと、たかじんは、自分が痩せ衰えてゆく姿を人に見せたくなかったんじゃないだろうか。
元気な姿、イメージのままで、やしきたかじんは皆の前に見せたかったんだろう。
そして、やしきたかじんは葬儀を済ませ、あちらの世界へと旅立って行った。
やしきたかじんは、結局のところ、自分の死に顔さえ、誰にも見せず、お別れもないまま、あちらの世界へと旅立って行った。
たかじんらしいな、と僕は思う。
やしきたかじんが亡くなった今。
もう、こんな良い意味での破天荒で人間臭さのある人は出てこないんじゃないか、と思う。
これは、横山やすしや中島らもが亡くなった時にも、僕の胸に去来した気持ちだ。
でも、こんな面白い人をリアルタイムで見ることできた僕は、幸せなんだろうな。
御冥福をお祈り申し上げます。
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