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【Chinese ring と フレンチCANCAN能 】
今から、10年程前に「某巨大掲示板」を中心に 「マイヤヒ」 と呼ばれる曲が
ヒットしたことがあった。
原曲は、モルドバ共和国出身の男性3人組によるO-ZONEというルーマニア語の
音楽グループが歌った『 Dragostea Din Tei : ドラゴスティア・デイン・ティ 』 である。
言語はルーマニアなので、誰も意味も何も解らない。だがネットの連中は、
空耳と耳コピだけで日本独自の「ドラゴステア・デイン・テイ」を完成させた。
『 恋のマイアヒ 』である。
だが、恐ろしいことに日本人は、今から200年近く前に既に同じコトを
やってのけていたのである。
それが『 看看能:かんかんのう / 九連環 』である。
「かんかんのう」は、日本の俗謡。江戸時代から明治時代にかけて民衆によって広く唱われていた。
別名「看々踊(かんかんおどり)」。 アテクシが知る限り最も古い『 洋楽 』である。
コレを “洋楽” と呼ぶと、新橋あたりの洋カラ酒場のハゲ親爺は怒るのだが、
『 西洋の音楽、略して『洋楽』、なら東洋の音楽も『洋楽』でそ?』
などと抗弁すると嫌な顔して黙り込むw
元歌は清楽の「九連環」だが、歌詞もメロディーも元歌とはかなり変わっている。
しかし、当時ネットやようつべはおろか、CDやラジカセ、テレビやラジオすらなかった時代に
日本人は、空耳・耳コピと口伝だけで、『九連環』を日本全国に歌い継いでいったのだ。
その間に日本風のアレンジが施されていくのは致し方の無いことだろう。
しかも、この曲は、古典落語「らくだ」に重要なモチーフとして登場する。
古今亭志ん生の 「らくだ」や、6代目三遊亭圓生『らくだ』は絶品だった。
先年なくなった談志師匠もかなりの使い手だった。
「かんかんのう」は、文政3年(1820年)の春、長崎の人が難波・堀江の荒木座で踊った「唐人踊(とうじんおどり)」に始まる。
これは、唐人ふうの扮装をした踊り手が、清楽の「九連環」の替え歌と、
鉄鼓、太鼓、胡弓や蛇皮線などの伴奏にあわせて踊る、という興行的な出し物だった。
この踊りは1862年(文久2年)刊行の『雲錦随筆』(大坂の画家・暁鐘成 作)にも、挿絵付で述べられている。
時同じくして、おフランスはパリのサンドニの丘。奇しくも同じ名前の「CANCAN踊り」 が
コメディ・フランセーズやムーラン・ルージュの間で編み出されていた。
後に、その名に国名を冠する「フレンチ・カンカン」である。
遥かエウロパの都からシノワ(支那)経由で長崎に渡来し、はたまた江戸まで伝播したのだろうか?
その後、「唐人踊」は名古屋や江戸にも広まって大流行となった。流行の加熱のあまり、文政5年2月には禁令が出るほどであった。
その後も庶民のあいだでは、「看々踊」や、その歌である「かんかんのう」が歌い継がれた。
その歌詞は、バージョンによって微妙に異なるが、以下のようなものである。
かんかんのう きうれんす
きゅうはきゅうれんす
さんしょならえ さあいほう
にいかんさんいんぴんたい
やめあんろ
めんこんふほうて
しいかんさん
もえもんとわえ
ぴいほう ぴいほう
意味不明の歌ですが、女性が恋人をほめあげる気持ちを中国風の歌詞で表現しています。
「九連環」の情緒的な歌詞とは似つかぬ卑わいな歌に変わりましたが、
これに合わせて踊る「看々(かんかん)踊り」は文化、文政(1804〜1830)の頃、江戸、大坂で大流行。
江戸では町奉行が禁止令を出す騒ぎにまで発展しました。
下は原曲である「九連環」の歌詞。明治十年刊『月琴楽譜』より
上記の元歌となった「九連環」の一番の歌詞は、以下のとおりである。
カーン カン エエ スウ ヌ テ チュウ レン フワン
チュウ ヤ チュウ レン フワン〜
シャン シュー ナア ライ キャイ ポゥ カイ〜
ナア バア タウ ルウ カ
カ ポ ドワン リャウ エエ エエ ユウ
(※ 現在の広東語の発音です。)
意味は
「見て見てちょうだい、わたしがもらった九連環。九とは九つの連なった環のことよ。
両手で引っ張って力で解こうとしても解けません。刀で切ろうとしても切れません。
ええ、なんとしょう」
「どなたかいませんか、私の九連環を解いてくれる人。
そんな人がいたら夫婦になってもいいわ。
その人はきっと頭の好い男に違いないから」 という意味。
「九連環」は、このように替え歌「かんかんのう」を生み出しました。
「かんかんのう」は「カンカンヌウ(看看奴)」
すなわち「奴(女性の一人称。わたし)をちょっと見て」、
「きうれんす」は「キウレンス(九連子)」
すなわち「キウレンクワン(九連環)」(※チャイニーズリング)、
「きゅうはきゅうれんす」は「キュウヤキュウレンクワン(九呀九連環)」、
「さんしょならえ」は「シャンシュナアライ(双手拿来)」
すなわち「両手で持って来る」、
を日本語風に崩したものである。
江戸から明治にかけて、「かんかんのう」を唱っていた庶民の大半は、
この元歌が中国伝来の歌であることは認識していたが、
歌詞の意味は把握しておらず、一種のナンセンス・ソングとして、
意味不明ながら語呂の響きを楽しんだのである。
原曲「九連環」と「かんかんのう」の吟じ方の違いは、冒頭の歌詞から違います。
「かんかんのう」 : ♪かんかんのぉ〜

きゅうれんす〜
「九連環」 : ♪ かーんかんえ〜

すぬて きゅうれんかん〜
清楽の伝来は享保年間(1716年-1735年)である。清の中国支配が始まり、
清国との貿易で長崎には多くの清国商人が渡来し、
彼らが清国の戯曲や民謡といった民間音楽を伝えた。
唐人屋敷に出入りを許された唐通事(中国語通訳)、地下役人や奉行所役人、
さらに丸山の遊女等を介して普及した。
幕末までには、薩摩や琉球などを除く全国各地に広まった。
また江戸や大坂を中心に、清楽の歌詞と楽譜(工尺譜)を書いた清楽譜も盛んに刊行された。
現存最古の清楽譜は、天保3年(1831)ごろ刊行された亀齢軒斗遠(葛生斗遠)編
『花月琴譜』である。
明清楽奏者の家元としては、平井連山(女性。明治19年5月に88歳で没)などが有名であった。
坂本龍馬とその妻の楢崎龍も、清楽の月琴の名手であった。
幕末には、坂本龍馬も高杉晋作も、伊藤博文も西郷隆盛も長崎の花街丸山の料亭花月で
「九連環」を歌い、踊り、楽しんだ。
当時はナウでヤングなデエスコ・ナンバーだったのだw
【

坂本龍馬と楢崎お龍が愛した月琴(実物) 長崎亀山社中蔵】
清楽は江戸から明治にかけて大人気を博したが、日清戦争を境に急速に衰えた。
しかし、日本の大衆音楽に残した影響は極めて大きく、江戸から明治にかけて流行した
「かんかんのう(看々踊り)」や、明治の自由民権の壮士たちが月琴を弾きながら唱った
「法界節(ほうかいぶし)」や「演歌」も、清楽から姿を変え発展したものである。
また清楽のメロディーに乗せたさまざまな替え歌は、清楽そのものが衰退したあとも、
昭和の初め頃まで歌い継がれていた。
明治から昭和まではヴァリエーション替え歌が続出していったのです。
「かんかんのう」は明治(1868〜1912)になって、
さらに「ホーカイ節」(春風に 庭にほころぶ梅の花、鶯(うぐいす)とまれやこの枝に
ホーカイ、そちがさえずりゃ 梅がモノ言う心地する ホケキョ ホケキョウ…)や
「さのさ節」「むらさき節」「くれ節」「鴨緑江節」
「満州節」「とっちりちん」などと、姿形を変えながら、はやり続けます。
明治には“梅ヶ枝の手水鉢(ちょうずばち) 叩いてお金が出るならば、
若しもお金が出た時は その時ゃ 身受けをそうれ頼む…”
の「梅ケ枝節(うめがえぶし)」が生まれ、
昭和12年(1937)には“もしも月給が上がったら、私(あたし)はパラソル買いたいわ、
僕は帽子と洋服だ…”の
「もしも月給が上ったら」(林伊佐緒、新橋みどり・歌)になります。
昭和29年に作られ、宴会での余興に歌い踊られ、お座敷ゲームでも楽しまれた
“野球するなら こうゆう具合にしやしゃんせ…”の
「野球拳」もこの流れを酌むものです。
このように、長崎発の明清楽「九連環」は日本流行歌謡の源流の一つとして、
最近まで生き続けているわけです。
【

現在も群馬県上野村に残る「かんかん踊り」 】
※ 注釈 1)
【 チャイニーズリング (Chinese ring) 】とは、知恵の輪の一種。
『 九連環(きゅうれんかん) 』 ともいう。
チャイニーズリングは、もっとも古い種類の知恵の輪と考えられている。
『戦国策』には、「秦の昭王が斉国に玉連環を贈った」という記述が出てくる。
確証はないがこの「玉連環」が、「九連環」と同種のものであるといわれている。
一方では九連環は、「諸葛亮が、妻の無聊を慰めるために考案した」という伝説もある。
イタリアの数学者カルダーノが1550年に書いた本でチャイニーズリングを論じている。
なおイタリアではチャイニーズリングを「カルダノの輪」と呼んでいる。
チャイニーズリングは、錠前の一種として、またアクセサリーとして
財布の留め金に用いられたという。
『蘭学事始』の中には、平賀源内がカピタン(オランダ商館長)に会ったとき、
知恵の輪付の金袋を出されたという話が載っている。
「この口試みに明け給ふべし、あけたる人に参らすべしといへり。
その口は智惠の輪にしたるものなり。
座客次第に傳へさまざま工夫すれども、誰も開き兼ねたり。
遂に末座の源内に至れり。源内これを手に取り暫く考え居しが、
たちまち口を開き出せり。」(『蘭学事始』より)
このときの袋に付いていた知恵の輪はチャイニーズリングであろうと思われる。
和算家の会田安明は、数え年で9歳の時九連環を解いたと自伝『自在物談』に書き残している。
〔構造]
金属製の輪が順につながった形をしている。それに針金の細長い輪をさしいれ、
根本までからませている。
はずすときは、すべての輪をはずして、本体と細長い輪が分離された状態にする
(写真参照)。
根元の方の輪をはずす(かける)ためには、先の方の輪をかけたりはずしたりしなければ
ならない。
はずすための作業数は輪の個数nに対して、
奇数の場合
\frac{2^{n+1}-1}{3}
偶数の場合
\frac{2^{n+1}-2}{3}
となる。つまり、輪が1個増えるごとに作業量が約2倍になる。
【過去参照日記 : ふるさとの歌� ,任鵑任蕕蠅紊Α�
http://mixi.jp/view_diary.pl?owner_id=980114&id=1918137657
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